カテゴリー「旅行・地域」の32件の記事

2012年11月14日 (水)

豊かな上野村生活

昨年11月17日に住民票を移し、29日に引っ越ししてきましたので、もうすぐ上野村に来てから一年経とうとしています。

この間いろいろありました。来て早々テントウ虫とカメムシラッシュで二階中が埋め尽くされ、気温はマイナス十度以下。屋内水道管の破裂。二月の凍結による断水と。これだけなら上野村生活をあきらめたかもしれません。

自然は厳しかったわけですが、人は温たかった。水道が破裂したといえば駆けつけてくれるご近所。畑を作ってくださる大家さん。留守には畑を管理してくださるお隣さん。いろいろと良くしてくれる八百屋さんを始め皆様のお世話になっているおかげで生きていられます。

都市にいるとお金だけで関係が割りきれるのですが、上野村は違います。野菜をもらってお金を払ったら、たぶん次からもらえないでしょう。こちらは御礼のつもりなわけですが、「こっちがくれたいからやっているのに、金をくれるとは何事だ」と逆に怒られてしまいます。お金が関係性を割り切るためのツールであることを実感します。

また、ある時は鍵の閉じ込みをしてしまい、ご近所山の世話になったのですが、往復で一時間以上仕事の手を止めさせてしまったにもかかわらず、「困ったときはお互い様なんだから気にするな。変に気を使うと次からやってやらないぞ。」と優しく言ってもらえました。本当にありがたく感謝の日々です。

春になるとこんなに人が来るんだと驚きもしました。そしてお祭りやら町内の集まりやら消防団やら、青年団やらにも参加させていただき、毎週何らかのかたちで飲み会だった気がします。細かい話は20120731上野村生活を振り返ってにもいくつか書いてあります。

ただし、都市の人がいわゆる静かな生活をしたくてくるには向いていないかもしれません。関係性を楽しめない人には居心地の悪いところだと思います。村民は確かに優しいけど、自分から心を開こうとしなければ、村人も心を開きません。関係性がなければ生きていけない土地ですから。

上野村に初めてきたのは5年前。上野村シンポジウムがきっかけでした。そのご内山節先生を追いかけているうちに上野村を気に入りついに居着くようになりました。(関連:内山哲学カテゴリー

急斜面の山の中なので、本当に先人たちが苦労して作ってきた財産であることを実感する日々です。こういう財産は受け継がなければいけません。

しかしご縁とは不思議な物です。大家さんと東京で会っていたけれどもお互い全く知らずに家を借りることになります。しかも大家さんの親戚を私も知っていて・・・。その方に知り合ったのもまた偶然。偶然が重なり必然的に上野村にいる気がします。

自分の人生何度か収入が一度0にリセットされてきました。リセットする度に次は出世するのですが、ここ上野村で成功し定住していきたい物です。

纏まらない話になってしまいましたが、ツイッターを始めると、頭を使わなくていい簡単さから、あればかりになってしまいます。社会がお金で割り切る短絡的な構造になりつつある昨今。楽をしたいという欲求ばかりが取りだたされ、大事なことが忘れられてしまいます。人間は人間という関係性の中でしか生きられないのに、どうするんだろうと思ってしまいます。自分はこの関係性あふれる上野村にいるから関係ないというわけにはいきません。関係ないというのであれば都会の人と同じになってしまうわけですから。

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2012年5月 8日 (火)

ローカルとグローバルとファシズム

 どうも皆さんお久しぶりです。ブログも書かなければいけないと思っていたところにお師匠さんから「ローカリズム言論」をいただきネタができたので書き始めます。

 今自分は群馬県上野村に越してきたわけですが、本当にすばらしいところです。水道管が破裂すればご近所が駆けつけて壁まで壊して直してくださり、下界に出かけている間に大家さんが庭に畑を作ってくださり、そこにはお隣さんがジャガイモを植えてくださる。そして米を買いに行けば、タケノコご飯をもらってくるなど、あげたらきりがありません。

 確かに最寄りのコンビニまで30分、冬季には気温がマイナス10℃だったりと、自然環境は厳しいこともありますが、だからこそ春の喜びがわかったりします。

 自分はずっと科学(化学)系にいたわけですが、(かがり火 144号参照)自分が求める問い「人はどうやったら幸せに生きることができるか」には全く役に立たないというのが勉強すればするほどわかりました。確かに原子力発電所の仕組みやデジタル回路の制御などは理解できます。でもそれは村にいると本当に何の役にも立たないことを思い知らされます。

 上野村は下の村ではないので山の中です。そうすると外にいる人はのどかな山間の風景を思い浮かべると思いますが、確かに見た目にはそうです。でも実際には違います。上野村の春は短いので、草木は一生懸命花を咲かせ、蜂は花々を飛び回り蜜を集め、ありも食料を貯め、鳥はさえずり相手を探し繁殖するのに忙しい。村人も祭りや農作業などに忙しいのです。暇なのは畑の知識も野草の知識もないので何の役にも立たず、ただそれを見つめるしかできない自分と観光客くらいのものです。

 蜂などを見ると都会の人は危ないとも思われるかもしれませんが、この時期は蜜を集めることに忙しいので、人間と戯れるような暇な蜂はいません。刺されたとすればよほど人間の側がちょっかいを出したので、じゃまにされたからでしょう。

 上野村は国家戦略の中で、田舎=遅れたところとされてきました。実際、そう未だに思っているご年配も多い。でも実は逆です。上野村は最先端を守り抜いてきたのです。国家にあらがったからこそ、今、山歩きツアーなどができるのです。そういう先人たちの苦労に感謝し、活かされていることを実感します。

 国が田舎を遅れた所としようとしたのには訳があります。一部の権力者が完全に統治できる国家つまり中央集権国家を作るために、田舎から都市へ人を集める必要がありました。当然国に頼らなくてもそこだけで生活が完結してしまう田舎の存在は目障りです。国家の管理下にすべてを治めたいが故、田舎より都市の方がすばらしいという幻想を抱かせ、田舎を否定し続けてきました。

 そんな支配者たち思いが功を奏し、今は国に頼らなければ何もできないうんざりとした都市ばかりになってしまいました。自分は今まで下界にいたわけですが、知れば知るほどこのままでは「都市が崩壊する。共倒れになる」と感じ、たまたま知り合った上野村に避難してきたわけです。本当に上野村はいいところですが、それだけに都市との共倒れだけはなんとしても回避しなければなりません。

 一時期、お金さえあれば何でもできると言っていた人がテレビに良く出ていましたが、それは国家が通貨を保証するという前提に成り立っています。国家が破綻すれば通貨はただの紙切れでしかありません。そうなっても上野村を始め、過疎地は生きていけるでしょう。しかし国家はそれを許さない。自分たちだけが豊かに生きていることをメディアを駆使して、全力で否定してきます。田舎が遅れた所でそんなところに住むのは野蛮だぐらいのステレオタイプでは許さないでしょう。幸い上野村は内山節派が応援に来てくれるので、理論武装できるから対抗できますが、他の地域は自立できる能力があったのに共倒れにさせられる危険があります。

 本来はこういうことを食い止めるために政治家がいるはずなのですが、皆さん学校で優秀に勉強をされてきたので、国家の洗脳の延長線上にいます。日本で地域のことを考えていた政治家は田中角栄くらいのものでしょう。賛否両論あると思いますが、それだけの仕事をしたのですから、それなりの対価を受け取る権利はあると思います。群馬なんか4人も総理大臣がでているのに、高速道路にしても新幹線にしても新潟のおまけで通っているようなものです。政治家の皆さんが思っている俺が国家を良くすると言うことが幻想なのです。「俺が」と思っているといつの間にか権力者によって支配されてしまいます。

 実際、自分も専門家であれと教育されてきました。だから学位が大切だと思ってきました。大卒で終わってしまったことにコンプレックスがあります。これだけ内山先生の話を聞いていれば論文出して博士もらえるのではないかと思っていました。最近ようやく実はそれは本質からはずれていることに気がつかされました。博士を取ることが目的になってしまっていて、本当は師匠の話を聞いて自分が何を考え行動するかの方が大切なわけです。

 この(権力者の暴走の)流れにあらがうにはどうしたらいいのかずっと考えていました。お師匠さんの本や説法を直接伺いながら思うのは、抗ってはいけないのです。大切なのは違いを許容すること。相手と自分は違う。まして自然は思い通りにならない。自然を制御できないのと同じように、人間だって完全には統治できません。我々は常に関係性の中で活かされています。関係性を意識した社会においてはすべての答えがおのずから導かれます。

 上野村の財産は「人」である。本当に観光だけで帰ってしまう人がもったいないと思います。今のうちから関係性を結んでおかないと、共倒れになってしまいます。

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2012年1月31日 (火)

【イベント情報+UST】第4回新たなる多数派の形成をめざす上野村シンポジウム

東日本大震災から未来へ
-培ってきたものの再評価、新しいものの創造-

 東日本大震災から一年近くがたつ2012年2月4日と5日、これからの社会をどのようにつくっていったらよいのかを、群馬県の山村、上野村から提案する全国シンポジウムを私たちは開催します。今回の震災をどのように教訓化したらよいのか。復興のためにどんな行動をし、日本の社会をどうつくりかえていけばよいのか。自然や人のつながり、地域の文化を大事にしながら生きてきた上野村の地こそが、未来を語る最適地であることを確信しながら、全国の多くの人たちと議論できる場を私たちは創造します。
分科会テーマ

パネルディスカッション・コーディネーター
  内山 節(哲学者)

  • 新しい産業は懐かしさから
      吉澤 保幸(場所文化フォーラム代表幹事)
  • 上野村は行動する!
      神田 強平(上野村村長)
  • 地域文化が未来を作る
      田中 幹夫(富山県南砺市市長)
  • エネルギーを自分の手に
      鈴木 悌介(鈴廣かまぼこ株式会社副社長)
  • 環境と向き合う視座
      篠上 雄彦(新日本製鐵株式会社環境部)
  • 集いが地域を作る
      本木 陽一(高崎CIP)
  • からだという自然に学ぶ
      山上亮(野口整体・整体ボディワーカー)
  • 原発事故と向き合う
      芳賀 智美(福島県自然食レストラン「銀河のほとり」)
  • 自然から価値をつくる
      高橋 隆(神流町「田舎暮らし体験処 木古里」)
  • 都市と農山村の垣根をはずす
      黒澤 美穂(上野村yotacco)
  • その他パネリスト
      木内 孝(株式会社イースクエア)
      神津 多可思(リコー経済社会研究所)

2月4日(土)

13:00 開会
      「上野村の、旧きゆかしき婚礼の儀」上映
13:15 パネルディスカッション
      各分科会パネリスト
      コーディネーター 内山 節
15:15 休憩
15:30 分科会
17:30 分科会終了
      ホテル・ヴィラせせらぎへ移動
      自由時間
19:00 懇親会
  ヴィラせせらぎ河原にてどんどん焼き
21:00 懇親会終了

2月5日(日)

 9:00 分科会報告・全体討論
11:50 全体討論終了
12:00 閉会
13:00 おまけ(希望者)
      「上野村村長さんと座談会」
      まだまだ話し足りない人、村長さんとじっくりお話ししたい人、上野村の今後が気になる人は村長さんとざっくばらんに話をしてみましょう!!

上野村公式Youtubeチャンネル
http://www.youtube.com/user/UenoVillageOfficial/

会場:上野村小学校音楽室
懇親会会場:ホテルヴィラせせらぎ
宿泊先:ホテルヴィラせせらぎ他
参加費:無料(宿泊、懇親会は別料金)
申込先:上野村役場企画財政課 TEL:0274-59-2111 FAX:0274-59-2470

どんどん焼きで、天神待ちの夜ごはん!

上野村の伝統文化に触れよう。
2月4日の懇親会では、「どんどん焼き」を体験しながら、今はなくなってしまった「天神待ち」という行事の際の食事を再現します。
上野村の文化に触れながら地元の食材にこだわったおごっつぉを楽しみましょう。

どんどん焼きってナニ??

 道祖神信仰のある上野村では、小正月に道祖神焼き祭り、どんどん焼きが行われています。道祖神はムラの入口や境に祭られていて、ムラの外から遅いくる疫神悪霊などをムラ境や峠、橋のたもとなどで防ぎ、守る神と信じられています。
 どんどん焼きでは、正月飾りや達磨、書き初めなども燃やします。また米粉で作った「繭玉」を枝に刺してあぶって食べます。「どんどん焼きの煙に当たると風邪を引かない」「繭玉を食べると身体が丈夫になる」「書き初めをくべて高く上がると書の腕が上がる」などと言われています。

天神待ちってナニ??

 1月24日が天神待ち、25日が天神講です。子供たちが米を持ち寄って近所の家に泊まります。宿の家で天神待ちをするのは、米だけの飯は物日でなければ食べられない時代にあっては子供にとって楽しい行事でした。醤油飯や缶詰飯、うさぎ飯などと、福神漬けか生姜くらいのおかずで食べました。食事の後、奉納天満天神宮と一点一画ずつ代わる代わる唐紙に書き、翌朝早く唐紙を天神様にあげに行きました。この日は夜更かしも許され、夜遅くまでトランプやかるた、双六、とっこ等で楽しい時を過ごしました。

当日は4日と5日の全体会のみ以下のUstreamで生中継します。

http://www.ustream.tv/channel/10296071

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2011年11月22日 (火)

上野村へ転居のお知らせ

いつもお世話になっている皆様

平素のご無沙汰お詫び申し上げます。
皆様に今年の年賀状でお知らせしました上野村移住の件でございますが、上野村の皆様のご配慮もあり11月末に引っ越すことになりました。

新居は
〒370-1611
群馬県多野郡上野村大字新羽956番地
となります。

 前橋にきて以来体の悪化を確実に感じていますので、リハビリをかねて水と空気の豊かな環境に移り少し瞑想しようかと思っています。(笑)冗談はさておき、山奥ではありますが、全戸光ファイバーが入っている贅沢な環境です。

是非お出かけください。(雪はあまり降らないようですが、寒くなると路面凍結の危険などがありますので、冬にお越しの際は雪用装備・スタッドレスタイヤまたはタイヤチェーン等をご利用の上お出かけください。)

三枝孝裕

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2011年8月 8日 (月)

農文協 読者のつどい2011 【哲学講座】 第三講

ほとんどの人がテレビで現状を知った。そしてテレビは初めて津波を映像化した。世界中が日本特集になっていた。世界の人には日本沈没だと思っていた人もいる。日本がこんなに細長い国だと知らない人もいるから。あの映像というのはすごい情報量。ラジオや本だと大変。僕もテレビに何度か出たことがあるが、TVでは出ていましたねと言われて終わり。ラジオだと内容に関わることをいくらか覚えている。しかし人が一番覚えているのは文字。一番情報量が少ないにもかかわらず。

TVはまず結論を言う。後半は覚えていてもらえない。大量の情報を受けた結果、判断ができなくなる。情報が大切なのではなく、判断することが重要。だんだんに現実性さえ失っていく。そんなに大量に情報が必要なのか。ただ情報が入るだけになってしまう。

これはいろいろなところで起こる。学校で多数の問題が起こったとき、学校の先生より保護者の方が判断できる。学校は中にいるだけに情報を持ちすぎている。あの人とこの人の関係、親子関係など。外から見ている人はいくつかの情報の中で判断をしているから。

生情報を流し続けても判断できない。誰かがまとめておおざっぱにする必要がある。情報というのはきちっと伝わるのかという問題になる。専門家でないと判断できなくなる。しかし誰かの判断が入ると言うことは情報操作につながる。また専門家の判断ミスも入る。正確な情報は提供しようがない。

近代社会の約束事は意味がない。情報を大量に出せば市民が判断すると思っていた。情報化社会、情報開示が幸せにつながらない。身体性や霊性でも情報を得られないと正しい情報を得られない。

マスコミが真実を伝えられないという人ほど新聞を見ていない。週刊誌などを読んでそう思っただけ。自分で新聞を見て真実を伝えていないと分析した訳じゃない。

身体性をなくし、知性でしか得られない情報は判断できない。コミュニティーは身体性や関係性のある社会共同体、一つのまとまりではない。様々な共同体が積み上がって村という共同体をなしている。

一つのモノに統合されるとうっとうしくなる。重層的に重なっているうちは多少うっとうしくても我慢できない範囲じゃない。明治以降一つの共同体にまとめようとした。多層的コミュニティーであれば都市でも可能。外部とつながっていないと内部も強くなれない。

今は手作りの世界だけですべて完結しないのだから、外部とつながらなければいけない。今回一番良く動けたのは元々つながっていた人たち。例えば鈴廣さんは大きいかまぼこやだが、全国にある小さなかまぼこやさんとつながっていた。そこでそのネットワークを使って本当にほしい物を送れた。しかも市役所を通すと分配までに時間がかかるという情報を得て直接持っていった。他にも高崎のグループが高崎であらかじめ支援物資を仕分けして持っていくなどの動きもあった。こういう形であれば、現地に行かなくてもボランティアに参加できる。閉じたコミュニティーは広がりを持たない。どういう形でどう開くかが大切。ただ開いてお客さんを待っているだけでは仕方がない。

自分のために生きている人だと、震災に遭いこれからどうしていいのかわからなくなってしまった。他者のために生きる人は強い。何らかの形で子供でも奥さんでも町でも他者のためにという人はそれなりに行動ができた。若い人ならまだ自分のためにでも何とかなるがお年寄りはだめ。原発立地地域は保証待ちになってしまう。自分で行動する意識が薄くなる。

近代以前は他者から「働きかけられている」ことを意識した。近代以降は「働きかける」方を意識した。そうすると働きかけられていることが見えなくなってしまった。働きかけられていることを意識しているとそれに答えようと自分も働きかけるようになる。逆はできない。

災害時を意識してどういう形で自然を残すか。また農山村と都市はつながっていかなければならない。しっかり結ぶのもあれば緩やかに外部と結ぶものもある。今の課題は私たちはどういうシステムの中で生きていくかを考えることだろう。今のシステムの延長を考えていると年金などいろいろな不安がある。社会の形は一つである必要はない。

人間の価値に根拠を求めている限り価値はない。それは知性で考えている限り、無根拠であるということである。霊性や身体性でしか語れない価値がある。例えば夫婦仲がいいところは、その根拠を語れないところが多い。逆に容姿がきれいだ、料理がうまいなどの根拠をあげるとそれがなくなると価値を失ってしまう。よくわからないけど、いいというのが長続きする。すべての物に根拠があるという近代が作った神話を壊していかなければならない。

僕は最近修験道にこっているんだけど、修験道は六根清浄といって山を登る。六根とは六識のこと。眼識、鼻識、舌識、耳識、身識、意識(心)。私たちはこの六式を使っていろいろな情報を得ているが、すべてを知性に回していない。例えば目には映っているけど、意識しない物はたくさんある。五感というと知性に回して判断させている。

哲学は今まですべてを語ろうとしてきた。しかし語り得ない物が哲学である。

関係性を持つことは煩わしいからできないという人がいる。しかし現代社会は煩わしさの中で生きている。例えば会社で出世するためには上司にこびを売る、役所なんか行きたくもないと思うくらい手続きは煩雑だが、みんな受け入れている。知らないことが怖いだけ。

日本語は表意文字だから行間で語ることができる。

グループディスカッションは省略

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農文協 読者のつどい2011 【哲学講座】 第二講

危機とはシステム崩壊のこと。地震は古代から生活や労働システムが壊される。これは今日も同じ。今回の震災で東京のシステム崩壊は若干起きて終わった。鉄道が止まる。電気が足りなくなる。帰宅難民が一日でた。

東京で起こる予想の地震では公共システムも崩壊する。情報システムも壊れる。すべては電力システムの崩壊から始まり連鎖していく。土がない世界ではお手洗いが大変。関西の時は水、食料は2~3日ですぐに届いた。つまり2~3日分備蓄しておけば間に合うことになる。お手洗いは大変。僕は上野村があるから何とか交通手段を見つけて脱出すれば問題ない。最悪直線距離で100kmくらいだから何日か歩けばつくだろう。でも高層マンションや都会の公園ではそうはいかない。

自然が支援装置になっている。村人たちも助けてくれる。共同体と自然が護ってくれる。この二つがない都会でシステムの連鎖崩壊が起こったら大変なことになる。

共同体は人とのつながりだけではなく、自然とのつながり、技術もあった。今の社会は専門家でないと対応ができない。今回想定外という言葉がよく使われた。原発は最大80年くらい修理しながらも使える。80年もあるのであれば、大地震や戦争だってあるかもしれない。想定があることでシステムが作られる。すべては想定に基づいてシステムが設計されている。年金がピンチになっているのはシステムが想定と会わなくなってきているから。今までは右肩上がりで経済成長し、こんなに未納者が多くなるとは思っていなかった。システム設計値を作り直さなければいけない。個人でも同じでこれだけの収入があるからということで住宅ローンをくむ。農家がトラクターを買うのにお金を借りるのも同じ。会社がつぶれたりすれば、想定が変わり、システムが破綻する。

システムはそういうモノだとはっきり見た方がいい。すべては想定が会っての話。巨大システムになると専門家でしか動かせない。普通の人が排除される。専門外の人が入れないシステムでは、普通の人は受益者になるか、被害者になるしかない。(この部分を改良したら良く育つなど)干渉して良くしていくことなどはできない。この構造自体が危険なシステム。専門家たちが軸になるということは、専門家の視点からモノを考えられない偏った人たちが集まると言うことになる。すばらしい知見を持った人ではない。そういう発想でしかものを見られない。専門家は絶えずその視点で見る。農民だって農業という専門家だが、そこには共同体や自然などが入るので視点が広がる。違う世界の人といかにつきあうかが大切。今だと農民だって消費者とつきあっている。狭い範囲で語ると同じ意見が出てきて、専門家の暴走を生む。

危険とはどういう概念なのか。放射能とか化学物質とか。世界が危険というのは動物実験をしてガンが出るなどの症状が現れたモノを危険としている。それでいいのか。埼玉大学の食品添加物の研究をしている人。最初に危ないと言ったのは豆腐に入っているやる。我々が小さいころは豆腐はすぐに腐ったので、鍋を持ってその日のうちに買いに行った。しかしそれが日持ちするようになった。厚生省に危険だと申し出た。マウスに供与すると高い確率で胃ガンが発生した。しかしなかなか取り入れてもらえなかった。なぜならば流通にとっては画期的なことだから。今まではおいておけなかったモノが、長期に陳列できるわけだから。その後これに変わる添加物が開発されたことで、禁止になる。胃ガンは国民病だと言われた。それが禁止にされて胃ガンの発生率は欧米並みになった。

しかしその先生はそれを危険とは言っていない。危険とは人間の予測できないものだ。ネズミが死ぬようなモノは超危険物質だ。腐敗は死にも至るわけだが、ずっとつきあってきた。五感でわかる。まず、酸っぱい臭いがして、色が変わる、それでも判断できなければちょっとなめてみればわかる。だから危険とは言わない。最近では賞味期限がついて判断できない人が出てきたので、それは危険。

専門家といってもある角度からの専門家。安全だと判断されていたモノも別の角度から見たら危険だということは多々ある。天然の放射線は絶えず浴びて、体は自動的に修復してきた。しかし人口のモノは相ではない。つきあってきた歴史があまりに短すぎる。つまり、すべて危険になる。

専門家しか若菜内のは非常に危険な世界。大きなシステムも同じで自分で判断できないのは危険な世界。今の巨大システムは一つのシステムが崩壊すると連鎖崩壊してしまう。国に頼っていると震災対応もあんなもん。東電から経産省、国へとあがってくるデーターを見てしか判断できないわけで、それが一つでもおかしくなればシステムが機能しなくなる。

東電は広告を打つ必要はない。なにしろ消費者は他の電力会社がいいと言っても選択肢はないのだから。年350億円も使っていた。ある種のマスコミ買収費。経済の専門家は東電自体の問題よりも、年350億円使われないことが問題だと言っている。

東電の講演会はお金をもらう方からしたらいい講演会。1回100万からランク付けされている。自分は自然の良さしか言わないでいい。何を言ってもかまわないが、原発にふれないでさえいれば100万円。こんなクリーンさを守れるのは原発しかないとして、原発のクリーンさを第2部として東電社員が話す。東電は送電線も作っていないし、電気料金も直接社員がはかりにくるわけじゃない。そういう工作ばかりを社員がやってきた。

関係を修復しながら生活できない場所を作った。30年は入れない土地を作った。原発は風評被害は存在しない。風評被害とは農文協の社員一人がけんかをした。これが全社員がけんかをしたとなること。しかし原発はどこまでが危険かわからない。危険値はかわり、今まで安全だと言われていた値だって我慢しようという値になってしまっている。

こういう世界で生きている人たちを守らなければいけない。僕は購入券だけ買えばいいと思っている。商品自体は交換しないけれど、受け取ったこととして代金を支払う。これで農家にお金が入る。漁民であれば、これしかとれなかったということであれば、3倍の値段で復興支援費をかねて払ってもいいと思う。しかし原子力の場合は汚染された可能性があるとすると食べたいと思わない。人間的な思い、支援ができない。

今までの延長線上では対応できない。残念ながら土地に戻るかということもある。今までなら残った人たちが戻り、新しい人を連れてきて、再興ができた。しかし原発地域ではそれができない。新しい関係を創造するしかない。新しい関係を創造するしかない。

土地を持たない市や町が発生した。台帳の上ではあるけれども、立ち入り禁止。バーチャルの市町村。ネットワークの都市。それであれば僕が作ってもいいのかという話になる。一時的に特例とするにしても、20~30年は長いし、そういう状態でいいのか。

住民票があっても、違う都市に住む不便。そうなると住民も減っていくだろう。最後に残るのはどうにも行きようのない人と最後まで粘る人だけだろう。もし人口がゼロになれば市町村は存在できない。そうなるとその土地は誰が管理するのか。近隣市町村との合併だろうか。初めてのケース。

バーチャル市でいいのか。一面では私たちもバーチャルの世界に生きているから問題にしている。原発あるのは知っていたけれど、あんな事故を起こすモノだとは思っていなかった。原発は遠いモノ。イメージの世界に生きていた。

欧米に追いつけ追い越せと言うのは途上国的思想。その当時日本は途上国だと思っていた。先を走っているなら追い越せとはならない。江戸期にはいい文化を持っていた。追いつけ追い越せというイメージを明治時代に作った。戦前の日本には列強に追いついたというイメージがあった。植民地とか。それが変わったのが関東大震災。今でこそきちんと並んで支援物資をもらい、暴動も起こらず偉いと賞賛されているが、関東大震災では略奪などがひどく、軍が戒厳令を出して巡回していた。

そこではいろいろな風評被害が流れた。例えば朝鮮人が井戸に毒を入れているといったものである。それをそのまま読売新聞が伝えてしまい朝鮮人大虐殺につながった。3000人くらいの。警察署に囲っていると聞いたら、警察署すらおそった。日本人がいつでも美徳を持っていた訳じゃない。列強に追いついたときにはそういうことをしている。

なぜ今暴動を起こさずにちゃんとやっていけるのかを考えてみたい。バブル以降我々の社会はどこかで間違ったのではないかという思いがあった。そういう動きが広まっている中で震災が起こったとすべきではないのか。100%システムに入っている人がシステムを作り直すのは難しい。一つの文化の中で暮らしている人から新しい文明が出てくることはなかった。新しい文明は常に文明の狭間にいた人。初めて機関車を見た人は驚嘆する。それが毎日見ている人には感動がない。驚嘆することが新しい文明を作る。旅に出ることや、都市と農村の交流、過去を知るなどによって新しい価値観を得る。

私たちの社会は境界線に向かって歩いていた。大きく歩く人もいれば、小さな一歩の人もいる。でも向かい始めていた。システムの中にいる人にはシステムを見直すことができない。消費社会を批判していても消費社会の中にいればそれに頼らざるを得ない。

原発は安全か安全でないのかの議論はしたくない。少々のトラブルはあっても安全だとなるとそれに反論が出てきて、無限の論争になってしまう。原発は最終的に止まるかもしれない。それは安全性の問題ではなく、コスト論で最終処分まで考えたら会わないからという可能性はある。

広島、長崎の被爆経験があるだけに、核の平和利用にはあこがれがあった。軍事はいけないが、平和利用はよい。政府に批判的な竹谷ですら原子力を推進していた。そういう時代だった。反政府的知識人ですら賛成していたのだ。

そういう歴史を経て、原発の事故を得た。こういう形で人々のと生活を、思いをつぶした。そういう形で社会を作ってはいけない。等身大の人間たちの営みの中で迂回路ができないなら、すべきではない。安全、安全でないから脱原発なのではない。今までは死を遠ざけていた。死を覚悟する、覚悟することが未来。そういう形でしかつかんでいけない。決して生きる世界だけ喜びを感じていた訳じゃない。そういうものをどこまで戻していけるか。いかに大きなシステムに依存せず、専門家しかわからない社会を終わりにしなければいけない。等身大の世界をどう取り戻すか。人々はそれに向けて歩み始めている。

数字しか見ていない人にはできない社会。定住とはその場所に住んでいることではなく、その土地に永遠性を感じること。そこに何世代も住んでいくことではない。今日の問題は異動先に永遠性を感じ得ないこと。移住自体は昔から行われてきた。お嫁さんは隣村からだったりするし。

新しい技術を使うときは、新しいモノにはすべてにリスクがあることを意識して作っていく。新しいモノ=バラ色の未来ではない。本来成熟した社会とはそういうモノ。これができたらバラ色は途上国型社会。

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2011年8月 6日 (土)

農文協 読者のつどい2011 【哲学講座】 第一講

震災前に三重県まで内山先生を追いかけたきりでしたが、震災後にようやく内山先生にお会いすることができました。三重県に行った際には杉谷さんにそれはそれはよくしていただき、観光まで堪能させていただきました。そのレポートを書こうと思っていたら震災があり、選挙がありで・・・。なんとか落ち着いてきました。

7月の終わりに社団法人農山漁村文化協会(農文協)主催の読者のつどい2011 

【哲学講座】 近代文明の限界と未来の創造
-「復興」の意味を問いかける

に五時間近くかけてお隣の長野県栂池高原まで行ってきました。

当日の様子はツイッターでは何度か流していましたが、ようやく内山節の時代がきたなという感じの哲学講座でした。内山先生の話は非常によいのですが、追いかけすぎて同じ話を最近聞くことが多かったので、震災という切り口は斬新でありました。

最近メールチェックもしていなかったので、開催すら正直一週間前まで知らない事実でしたが、三人委員会哲学塾ネットワークの澤田さんから今年の開催について打ち合わせをしたいので、ということで農文協の事務局にわがままを言って参加させていただきました。必要な行動はこうして外因的に決定されていくのですから、運命とは不思議なモノです。

それでは例によって当日のメモを元に作成しておりますので、原文そのままではありませんことご了承ください。

東日本大震災はゼロからの出発なんだろうか。津波と地震だけだったら日本の社会では繰り返し経験していること。100年に一遍大きな津波がきていた。最近では50年に1回。そういう地域ですら未経験のこと。
原発、文明の災いか。日本としては始めての経験。自分たちが作り上げてきた文明自体が災いになる。完全に始めてではなく、戦争という形では起きてきたことはある。
私も原発には反対してきたが、ここまで脆弱だとは思っていたなかった。原発は遠いと思っていたが、事故が起こると東京でもホットスポットができている。いろいろな意味で復興が課題になっている。地震地域と原発地域を分けて考えないと復興はできない。

地震については復興が始まっている。目に見える形だけではなく、人々のつながりの再開など。自分は何もできなかったとしても、お年寄りが縁側で復興を見つめてほほえんでいる。ただ、これだけでも復興なのである。しかし原発地域は復興できるのだろうか。いつから復興できるのか全くわからない話。高濃度の地域は永遠にできないと腹をくくるべき。セシウムの半減期は30年だから30年たつと半分、もう30年たつと1/4になり、200年もたてばほとんど減る。でも具体的にいつなら安全なのかという期限は決められない。そういう意味で永遠といっている。復興が定義できる地域と定義できない地域に分ける必要がある。被爆者の健康被害が早ければ2~3年後に出てくるだろう。

私自身は10代のころ被爆二世をよく知っていた。きわめて健康で普通に大学生活を送っていた。両親が被爆し、その子供たちである。内蔵が左右逆についている人が妙に多かった。生涯健康でいられるかどうか誰にもわからない。彼らの共通点は疲れやすいこと。無理ができない。大学生だから普通なら徹夜してもたいしたことはないはずだが、妙に疲れてしまう。普通には生活ができるが無理ができない。今はこの程度だけど将来わからない。結婚していいのか、子供を産んでいいのか、3世に遺伝するのか全くわからない。

放射能問題はわからない。高濃度ならすぐに症状がでるが、低濃度はどうなるかわからない。日本全体がこの問題への覚悟を抱えて生きて行かざるを得ない。

地震津波でも残っているもの。それは人々が作ってきた関係は残っている。人と人。人と自然。様々な関係において地域文化、(自然を加工し利用する)技などがでてきた。人間たちはどうやって生きてきたのか。いろいろなモノをつなぐことで生きてきた。狩猟や採取、農業、漁業など自然と人間をつなぐことで人としての営みをしてきた。もう一つは人と人をつなぐ。

そういう意味では近代は異常。人々はつなぐのではなく、自分のために生きてきた。全く不幸な形であったが、人間の生き方を(今回の震災が)変えた。死を見えないところに押し込んできた。頭の中では知っているけど、死が遠いところにある。永遠に死なないという生き方。私が小さいころからガンは3年後には必ず直るといわれ続けてきた。それは画期的な治療法や、画期的新薬が開発されることによって、このペースで行けば3年後にはもっと画期的治療法や新薬が開発されてガンが治るはずだということだ。しかし今は人間が生命体として作り出す現象なので、完全に直るとは思っていない。

20年くらい前までは核融合が盛んにいわれた。太陽を作る。原理は簡単。海水中の重水素を取り出し普通の水素に戻す。そうすると非常に強力なエネルギーがとれる。ただし、これを作り出すには1億℃1千気圧が必要。透過したエネルギーの方が出てくるエネルギーより圧倒的にでかかった。研究者は永遠に完成しない研究だと思っていたが、大丈夫だと言い続けないと大蔵省からお金が取れない。

不都合なことは科学の力によって直される。私たちの生の競演。これがずっとなされたきたのが近代。産業革命後にマルサスが20代終わりに人口論を書いた。これが永遠のベストセラーになっている。産業革命によって人口増加をもたらし、それが食糧難をもたらす。文明の発展は最終的には人を幸せにしない。今日にもつながる一連の心理。

当時の社会主義は言葉だけがあって実はない状態だった。人間が平等で幸せな社会であるという思いだけが存在した。当然マルクスに反論が出る。農地にはまだ開拓の余地があるとか、農業生産の向上で解決できるなど。でも限界はある。

産業革命は木質系エネルギーから石炭への変化であった。しかし製鉄業などは木炭だった。なぜなら当時の石炭は質が悪く不純物が多かったからだ。コークスが発明されるまで木炭を使用していた。イギリスには石炭はたくさんあったが、無尽蔵にある訳じゃない。経済が発展し続けるためには資源が無限にいる。

無限の経済発展を目指していった。実際倍々に増えていった。自然は無限に存在するものと仮定する。これが近代初期にここなわれた大きな不正。近代まではその仮定が使えた。石炭から、石油、そしてウランへとエネルギーが変化ていく。つい最近まで新しい鉱脈が発見されてきた。この10年くらい新しい発見のニュースがない。そんな形で人間に不都合なものは人間に都合良い仮定で解決する。死は不都合なモノ。死を遠ざけ、医学の発展は無限に病気を治し続ける。それは生きている人間たちの欲望を全面肯定してきた。生の競演と無限の増加は一連の流れ。自然に無限はない。疑問がでたら科学が解決してくれる。科学の発展にすべてを預けた。

原発は廃棄物の問題もある。フィンランドの10万年安全だという原発廃棄物貯蔵施設。地中に埋めるというよりもおいて行くに近い。10万年間安全な地下の穴蔵。コンクリートではせいぜい50~300年くらい。だから岩盤の強固なところをくりぬき貯蔵している。原子炉自体も廃棄物になる。福島があって緊急にやらなければいけない。何の根拠もないが将来の科学が解決すると思っている。

すべてを科学に預けることが、いろいろなところで行われてきた。公害問題、そのはじめとなる水俣病。60年代都市公害問題。そのころ、当時のソビエトは公害問題は資本主義の産物であり、社会主義からはでないといっていた。ソ連は公害を無害化する技術を開発したと言っていた。複数の煙をぶつけて消してしまう。常識的に考えれば第3の公害物質ができるのではないかと思うが、本気で思っていた。そういう時代に比べれば遙かに我々は今気がついている。

死は生の先にあるのではなく、生のすぐ隣にある。原発問題で気がついた。死と共に生きている。死を背中にしょいながら生きている。十分な生があってそれが終わったら死が来るのではない。そうであるなら生だけを全面肯定して死を遠ざけたままでよいのか。

我々の社会をどうつないでいくか。人と人、自然と人間、文化と人間、人間の社会は常につなぎ目にある。社会を考えたときに私は日本の比較にフランスをよく使う。フランスに行って思うのは東京もパリも似たようなモノ。景色と言語をのぞけば。でも社会観は違う。ヨーロッパは社会の構成メンバーは生きている人間だけ。生きている人間だけが集まって話しているのが自治。原理としてはえらく簡単。一方日本で自治を考えると日本の社会は生きている人間だけではない。社会の構成メンバーは自然と死者が含まれる。とするとこの3種の人の意見を反映させなければならない。最終的には生きている人間が決めなければいけないが、生きている人間が生きている人間の考えだけで物事を決めてはいけない。これが実際に可能か。ここに「つなぐ」が出てくる。

つなぎ目の中で生きてきた。ご先祖様の話をおばあちゃんが孫に話し、墓参りをする。何台前の祖先が開いたなどの話を教えていく。生きる=「個体」ではない。他者とのつなぎ目に生きている。死者との間にはどのように我々は生きているのか。自然との間に私たちはどうやって生きていくのか。つなぎ目で大切なのは年中行事や祭り。震災あけほとんど帰っていないが、上野村もこれから夏祭り。村には30以上の祭りや年中行事がある。祭りを通じてつながりを認識する。それ自身が自治の仕組み。伝統的な農山村で祭りがあるところはまだ生きていける。祭りがなくなったところは危ない。祭りを通して、地域社会を作ってきた。東京などでも町内会が拡大してきて地域を作ろうとするとまず祭りをやる。

1960年代後半にばたばたと行事がなくなる。今では祭りなど大きいモノだけが残っている。農村にも都市社会が蔓延し始めたとき、お盆で送るときは上野村では村中のご先祖様を大文字焼きみたいな形で送った。ご先祖様は地域を作った人。我が家だけではない。江戸時代に戸籍ができて、家系図ができる。そうすると我が家のご先祖様意識が生まれる。これを一本化していったのが明治。天照大神を一つの神として、その直系が天皇家。みんなそこから枝分かれしていった。直系でないとしたのがえた、ひにん。儒教学者がこうやって作っていった。今の形の「家」ができたのは明治時代。確かに武士は儒学を学んできたから家という考え方があった。庶民は部落が家。

仏壇ができたのは江戸中期。位牌自体はあったが、広がるのもそう。それでも地域のご先祖様感が強かった。日本の墓は一人一つだった。しかし、これが明治あたりから家の墓になる。

天皇家は火葬なのか、土葬なのか議論になった。明治になったときに土葬に落ち着いた。江戸期はたいした天皇ではなかったので、よくわからなかった。天皇制は明治以降で決めたと考えて良い。学者たちが一生懸命調べて作った。戦後も決着していないことがいくつかある。よく調べてみると現在のしきたりは当時できるはずがないというモノもある。

家々に戻ってきたご先祖様が自然に戻っていく。それが本来の形式。そういうことを通しながら私たちの社会は一つの形式を作ってきた。

復興のスピードが遅いのは国だけではない。県や市町村も遅い。これは平成の大合併の弊害。やろうと思えば復興特例債を発行することだってできる。復興が何を意味するのかわかっていない。

高齢の人がたくさんいる。80,90代の人。家族がみんな死んで80歳の人だけが残されたなんて場合もある。もしかしたらあと半年しか生きられない人も、復興に携わったという充足感が必要。復興というのはなくなるときに大変だったけど、ここで生きられて良かったと思ってもらうこと。荷物を持つなど作業は手伝えなくても、毎日笑顔でみんなを見つめみんなが癒されたならそれも十分復興に貢献したと言える。復興に向かう関係性。

ところが世間で言われている復興には、そういうものが全くない。家をどう造るか、町をどこに作るなどしか今は見ていない。それは復興を数値で見る人たち。行政が絡んでくると数字の話しかできない。復興に支援物資がいっぱい集まった。でも配らなかった。なぜなら行政は全員に配れなければ一つも配布しなかった。それはもらわない人ともらう人がいたら不公平だから。しかしこういうときはお年寄りや子供を先に渡すなど優先順位をつけてもいいはずだ。

関係は見ず、個々の数字しか見ていない。物資は山積みだけど、(合併による人員整理で)配る人もいなくて、より余る。今までであれば地域にこういう人がいると言うことがわかっていたが、合併してより数字でしか把握できなくなった。復興協同組合を作ってはどうか。正式な法人でなくてもいいから。農協や漁協などどういう組合があるか調べて。行政がやると生産力のある人だけの話になってしまう。年寄りは老人ホーム何床必要などとして。

社会構造といったときのとらえ方の違い。社会、経済、文化構造というころから見ていってと細分化したものになっている。結果経済が足りないならば企業を誘致すればいいのではないかとなってしまう。日本における社会構造とはそういうモノではない。つながり、関係性、、全体がつながり。復興させていくのはつながりとしての構造や関係性のつながり。そうすると伝統的な地域を復興していく必要がある。ボランティアとして協力しなくても同じ方向を向いていれば、同じ土俵に立つことができる。

私は大学で社会デザイン学部に所属することになったので、デザインについて考えてみた。デザインとは誰がやるのか。東京にはデザイナーはいっぱいいる。しかしどれもひどい。建築家がデザインしてもいい物ができない。農村社会では誰もデザインしていない。勝手に農村を作ってきた。しかし景観としてはすばらしい。デザイナーはいない。家、畑、土手。都市部はデザイナーがいるにもかかわらず仕方ないデザインになっている。

東京全体のデザイナーはいないが、経済発展こそがすべてという形で作られていった。道具として使えるモノとして科学や技術があった。その思想を地方としてもまねした。しかし東京ほどは発展せず、失敗し今の地方になっている。それを私たちはうんざりする目で見ている。

田舎は農村社会との関係で作っていった。そうすると自然にできていく。それがすばらしい計画になっていく。山と川の関係の中で水路を造る。復興も同じ。関係が主体にならなければならない。人間は代弁しているにすぎない。残念ながら今は数字しか見ていない。すべてがそうなっている。これを直していかなければいけない。

→質問を受けて
自然や関係が見える範囲のモノがある。人間の体だって絶えず修復している。数字でしかはかり得ないモノは修復し得ない。自己修復機能がないから。耐えられる範囲であれば自己修復できる。できないならばそれを直せない社会になってしまっている。

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2011年7月24日 (日)

暮らしの中に哲学 かみえちご

NPO法人持続可能な社会を作る元気ネット主催かみえちごエコツアーに参加しました。

初めて内山節先生にお会いしたのが、三年前の北海道(とかちローカルサミット)ですから、時間のたつのは早いですが、つきあっている時間はもっと長くも感じる不思議な感じです。

非常に良い経験をしたので、一刻も早くお伝えしたかったところですが、メモ帳を新潟県上越市の山奥に忘れてきてしまったので、視察団体のNPO法人かみえちご山里ファン倶楽部から元気ネット事務局経由で返送していただきました。事務局にはたいしたものではないと思いますが、自分にとっては処女作「常識は破るためにある」を書き上げたペンなので実は思い出の品物なんです。返ってきてよかったです。

だいぶわき道にそれましたが、本題に戻ります。今回の一泊二日のツアーはいつものように中島社長にご招待を頂いたわけですが、参加してよかったですね。何が良かったかといえば、第一には職員の目が輝いていたこと。皆さん京大卒、東農大院卒をはじめ、高学歴にもかかわらず、山奥にわざわざ越してきた方ばかりです。都会の人というのは電車に乗っていても、路上を歩いていても死んだ魚のような目をしている人しかいないと思っていただけに、カルチャーショックでした。

村の魅力ということもありますが、専務理事の関原さんが魅力的なんでしょうね。以下専務のお話の部分抜粋です。(聞き入ってしまったので、メモを取り忘れました。)

村づくりはクニ作り。クニとは貨幣に頼らず自立した地域の造語。村より小さい単位として存在する。

しかし村は市町村合併によりますますばらばらになってしまっている。村はいろいろな機能があるが、つなぎになる若い人がいないと村が回らない。それは数珠の紐のように。

村が何かをするときには昼間人口が必要。役所が統計を取っているのは、住民票の有無。寝るだけに帰ってくる人(夜間人口)は何の役にも立たない。住民票がなくても、昼間外から村のため手伝い、働いてくれる人が大切だが、それはカウントされず、村は住民票があることにこだわる。

千年同じところで同じもの(米)を作れるすごさ。アメリカなどでは連作すれば塩害が出てしまう。

今まで行政でやってきた支援は放っておいても支援してもらえる。しかし、本当に必要な支援はしてもらえない。

私たちは村の伝統技能、手技を調査した。そうしたらほとんど40~50年前で衰退している。これは道路ができたことが大きい。道路ができたら村が栄えると思っていた。実際には道路ができたら村は衰退していった。道路ができたことで紐となるべき若い人はみんな外に出て行ってしまったからだ。

その土地だからできることをやる。新潟なら稲作体験なんてどこでもできる。そうなると価格競争になってしまう。だからここでは体験はしない。おいしいところだけちょっとつまんでもらうのではなく、学習としてそれで食べていけるくらいのノウハウを身に着けてもらう。成功し始めると行政が手を出したがる。しかしずっと行政にいて物を売ったことがない人がどうして産業指導をできるのか。ちょっと人を呼ぶにはトイレや浄化槽が必要だがハードには補助がでない。

都会と田舎の媒体、媒介、翻訳それが山里NPOの役割。外と中、中と中、外と外をつないでいく。

定住者だけが村人なのか。都会からでも通ってくれる人も村人でいいのではないか。国や、県、市町村がつぶれても生きていけるコミュニティー。これとつながっていることが都市の人への保険にもなる。保険になると考えて高くても買ってもらう。実際私たちの米が高いといわれるが、カップラーメン1杯、500mlのペットボトルでご飯は2膳半から3膳は食べられる。それでも米は高いのか。何かあっても生きていけるコミュニティーとつながっている安心感も含めて買っていただきたい。

日本中の都市が特色をなくしている。村は都市の保険。そして村は過剰に儲けようとしてはいけない。村で使うあまりを余りを売る。そうしないと無理が出てくる。たとえば春になりすっぱくなるので棄てていた野沢菜漬けに、唐辛子とにんにくを入れるとおいしくなり、さらに保存期間も1年くらい延びる。もともと棄てようとしていたものだから、そんなに取れるわけではない。しかし量産しようとすれば、わざわざ棄てるような野沢菜漬けを作るようになる。さらに量産のための、設備投資は元は取れない。

木工体験教室で外材しかない恥ずかしさ。価値観を変える。今まではまっすぐ節のない木がいい木だとされてきた。それを誰も疑わなかった。というのも木を買うのは主に大工で強度などを考えればそれが一番良かったからだ。節があってやせ細った木は価値がないので、切ることすらされなくて、森が荒れていった。そこでこのNPOの前進の協同組合ウッドワークでは間伐材を年間定期量仕入れるので、わざわざきってもらうことにした。

平成大不況でゼネコンが倒産をすることになり、建具職人も大量に食を失った。そういう人たちに間伐材を使って、家具を作らせることにした。最初はこんな木では作れないといっていたが、「腕がいい職人ならどんな木だって作れるはずだ。作れないのは腕が悪いからだ」と大喧嘩をして、ようやく製品が世に出た。

出してみると、今まで節があって悪い材だと思っていたのが、都会の人は自然な風合いだとか真黒(中心が黒くなってしまった材)もコントラストが美しいなど、自分たちも思っても見ない評価がでてくるようになった。

その後芸大の先生なども加わり、今では個展を開けるまでになった。いまどきのデザイナーは木を嫌がる。なぜなら、木を知らないから。木がどうやって生えていてどうやって加工していたになるのかすら知らないヤツが、デザインなんかできるはずがない。

地産池消といって勘違いする人がいる。村に一軒しかない家具やだから売れるではだめ。それでは品質も悪くても売れる状態になってしまう。そうではなく、都会にも流通させられる技能のある商品を作る。そして一つの業種に特化してしまうと、それが倒れたときに困る。

最初は森を守るNPOだったが森を守るためにはそれを守ってきた村を守らなければいけないことに気づいた。そこで伝統文化技能のレッドリストを作ったら後10年くらいで消えてしまうものが大半だった。この一大転換を経て今に至る。

スタッフにはよく言ってある。自分の意見を入れないこと。いいたくなる気持ちはわかるが、よく意見を見聞きする。一緒にいた時間が村ではそのまま評価につながる。優秀かどうかなんて関係ない。

村の中で中心になっている小さな村から攻めていく。そうすると全体に広がっていく。このNPOは空気のような存在。最初はNPOというものが認識してもらえなくて、BPOとかIPCとかいろいろ言われたりもした。

多くの人と出会うことで多くのことに気がついていく。

まあ、お食事は山菜中心で、新潟なのでおいしい魚が食べられるかと思っていただけに、ちょっと残念ではありましたが、それにもまさる経験をさせていただきました。

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2011年2月 5日 (土)

ゆいの家移転記念 内山節先生講演会

ゆいの家がリニューアルオープンした記念に内山先生の講演会がありました。その模様を例によって自分のメモを元にお伝えいたします。聞いたままではありませんことご了承ください。

高石さんからは「新たなる時代とは」というテーマをもらったので、僕とともにあった時代からこれからを考えたい。僕自身の印象としてはこの60年で日本の印象はずいぶん変わった。世界の中でも変わった方だと思う。

僕は生まれは東京都世田谷区。当時は農村だった。戦前から住宅を建て始めた。小学校の終わりにはほとんど住宅でいっぱいだった。元からの人は商店や左官職人、大工をしていた。消防や役場も元から住んでいた人がやっていた。しかし住宅地の人はどこかにつとめていく。

こんな場所だから日本の遅れを意識していた。欧米は進んでいるが、日本は遅れている。そういう時代と比べると今はいろいろなことが様変わりした。とりあえず日本は外国の物を取り入れるが、あっという間に日本独自になっていく。トンカツやコロッケ、カレーライスのように西洋から入ってきたのに完全に日本独特の料理になっているように。

最近は立教大学にいるので先日も卒論の口頭試問をやっていた。父がジュネーブ生まれでジュネーブ育ちのフランス人がきている。彼のテーマはJ-MUSIC。どんな物か聞いてみようかと1,2枚レンタルしてみようかと思ったが、演歌を除く現代音楽すべてということなのでらちがあかなかった。何しろ棚に並ぶほとんどがJ-MUSICなのだから。

僕にとっては論文が英語でつらかったということもあるが、そこは何とかごまかして読んだ。彼がいうには1950年代から日本にアメリカンポップスが入って1960年代には独自の変化が始まり、1970年には世界に出て行き評価されていく。これは日本音階と融合したからだ。ポップスの中に演歌や民謡が入る。ドレミファソを使わない日本独自の音楽。(西洋音楽と)同じように聞こえても違う。なぜなら歌詞の作り方が違うから。日本語は単語で意味を伝えることができる。たとえば「桜きれい」といえば、伝わるし情景が思い浮かぶ。しかし英文は文節にしないと意味が伝わらない。

海外で日本の音楽が評価されるようになると日本人が英語で歌詞を書くようになる。そうすると問題が起きる。外国人には聞きにくい。発音の問題もある。それだけならまだいいが、日本人が作ると(日本語と同じ感覚で)単語で切ってしまうから、意味がわからない。それも今はクールジャパニーズカルチャーとして評価されるようになった。日本には短歌、俳句のように単語で区切る文化がある。

はじめは模倣していた物が、その後チープな日本化を経て、そして独自の文化になっていく。最近ではK-POP(韓国)、C-POP(中国)などは彼曰く日本の模倣である。

日本のJ-POPはどこで支えられているのか。それは日本独特の商売にあり。日本は世界的に見たらCDが異様に売れている国である。日本でも減っているといわれるがせいぜい2割減。世界では8割減。中国は未だにCDが売れているが、それは海賊版などで異様に安く売られているから。それは例外である。

音楽消費からタレント消費になっているから。タレントの追っかけでCDを買う。中にはファンクラブに入る人もいて、ファンクラブ限定コンサートや、一般のコンサートでもファンクラブ専用に前の方に席が用意されていたりする。さらにコンサート会場ではグッズを売る。グッズの方がCDの純粋な売り上げよりも高い。ファンにとってはCDを持っていることが大切。それによって仲間意識も出てくる。それゆえ音楽自体の価値で買っているわけではない。CDを持っていることでファンクラブのようなある種のコミュニティーに入ることができる。一人で音楽を聴くのではなく、コミュニティー二はいることを楽しむ。音楽自体のできの善し悪しで買う訳じゃない。大きいファンクラブでは分科会ができていて、小さいコミュニティーができる。そしてその会の幹事もできる。それが音楽会社と折衝もする。

日本の文化に変わる。それは日本の風土性と融合していくことだ。ご飯に合う料理を作ろうとすれば、トンカツに醤油などとなっていく。戦後だけ見ると敗戦からご飯食べるのも大変な世に中。その中でいかにアメリカ的な物を摂取するか。できた物を日本化、日本へ融合していく。企業も日本の風土への融合していく。日本には終身雇用はない。欧米では新しい人から切る。勤続年数の短い方から切るのが通例。ホワイトカラーは明日から切れる契約になっているが、一般労働者は違う。

解雇にはそれなりの理由が必要というのは先進国では当たり前。最低限度の保証が必要である以外に、日本には終身雇用という法律や制度はない。企業が欧米の文化を取り入れてやっているにすぎない。そして今は企業が持ちきれなくなった。企業が日本的をやめるとどうなるのか。人間はどうやってつながるのかということを社会が模索している。バラバラに壊してしまっていいのか。

アメリカ以外の国では、何らかの形で社会を作り直さなければならないと考えている。そして対象として50年前くらいが見直されている。

最近の若者は覇気がないといわれる。留学希望者や海外勤務希望者が少ないから、昔の若者から覇気がないといわれる。でもちゃんとそんなことに価値がないので実施しないという意思表示をしている。昔は海外にいくと偉いといわれた。

また、高齢者中心に貯金にしてしまい運用されていないといわれる。でも郵便局や銀行が運用している。郵便局は国債という形で。自分自身で運用していないだけで、運用されていないわけではない。アメリカは2/3が債権。1/3くらいしか預金がない。アメリカに従い、小泉竹中時代に預金から投資へとキャンペーンをうった。自分の意志ある使い方がされていないといわれる。でもちゃんと意思表示をしている。そんな使い方をしたくないと意思を表している。アメリカの基準で見るから何で意思表示をしないのかといわれてしまう。ある基準で見れば意思表示がないとなってしまうが、実際には意思表示をしている。

今だって海外に行っていない訳じゃない。途上国に行く人はむしろ増加している。アメリカに留学してもいいと思う人が減っただけ。こういう意味でも今の社会は変動している。社会の先頭に立つとか、挑戦していくとかに興味がないだけ。今までいうような挑戦はないだけ。農村に行って農業をやりたいという人が増えている。これは大変なことであるが、挑戦しようと思ってやっているのではない。やりたいことをやるだけ。ファンという仲間の世界。

欧米を越えて社会主義にしようという時代があった。たとえば学生運動である。1960年安保闘争。その後のいわゆる全共闘時代になっていく。安保闘争の時代の学生運動は、戦前と大して変わらない大学生数。社会的には金の卵といわれた。中卒で就職列車に乗って田舎から上京してくる人の方が多かった。大学でるということはエリートであった。特に女性が大学を出るのは。家によってはまだ昔気質で、大学を出るより技術を身につけた方がいいというところもあった。

その後一気に大学に行くことが普通になり、そこら中に新設大学ができた。エリート大学生という時代は終わった。エリート大学生が保証されていた時代は、自分が優秀だから大学に行けたとは思っていない。たまたまいけただけ。本当は隣の家のあいつの方が優秀だということはわかっていた。しかしあいつは家の事情などで大学に行けず、自分は恵まれた環境にあり、行くことができただけ。そういう形で大学にきた人間はどういう形で生きるか社会的責任が見えていた。勉強したことで世の中の役に立とうというという意識。どういう社会を作るために勉強をするのか。

全共闘のころはエリートの反乱とは言い難い。普通の人の反乱になっている。このころよく使われた言葉に「自己否定」がある。何となく生きている自分がおもしろくない。大学でてどこかには就職ができる。終身雇用、年功序列があり、可もなく不可もない人生が約束されている。自分で自分に反乱を起こす。そして部落、朝鮮差別などが今も残っている中で、自分は可もなく不可もなく生きてそういうことを見ない。そういう自分を否定する。

世界的にも同じ時代。フランスでは「存在」から「実存」へという落書きが多い。日本だと存在感などとして使われ重みがあるが、欧米ではただあるだけというのが存在。ただあるだけから自分の意識を持って生きていく。

そのことは日本でも戦争責任論を大きく変えた。それまでは軍部にだまされただけで、一般人は被害者だという論調だったが、果たして被害者なのかということをこの時代問い直された。戦争反対といえない時代だったとはいえ、みんなで戦地に送り出す、戦争という祭りになっていたことへの責任。被害者であると同時に加害者でもある。いいか悪いかは別としても全共闘時代はいろいろなことを見直すきっかけになった。部落差別はどうやって我々が関わってきたのかということを見直した。私たちが傍観者であったことがいけない。女性差別にしても、俺男、おまえ女に問題はなかったのか。無意識の差別。自分たちのあり方の総点検。

安保闘争を経験した人も、終わると普通に就職して、普通の人になっていった。その後学生運動自体にも人が集まらなくなっていく。一部では人気が出るが、大多数の人からは大ひんしゅくを買う。わずか数年前は100人、200人集めるのが大変だったのが、全国に数万規模になる。集まってきたが、人のことに関心がない。自分はどうするかになる。人間すべてのことができる訳じゃないから。自分の関心のあることをやる。そうしてバラバラになっていき、全体として何をしているかわからなくなる。後ろの世代に引き継ぐということもしなかった。自分たちは勝手にやってきたので、引き継ぎをしなくてもやってくれるだろうと思っていたが、そうしたら後ろの世代の人があまりやってくれなかった。

国により後始末の付け方が違う。フランス5月革命では公職追放して、まともな仕事に就けなくなる。しかしその後20年ぐらいたって優秀な人を吸収する。ドイツではバーダー・マインホフという人を中心にしたグループがある日突然獄中で全員が集団自殺したという発表が流れる。全員が同じ檻房にいたならまだしも、独房にいた全員が首つり自殺したと平気で発表するあたりが、やはりナチズムの国である。アメリカはベトナム戦争反対と黒人解放の動きが合わさった。中でもブラックパンサーはFBIによって会議中に踏み込まれ全員射殺された。

ただし、全共闘の社会主義は、社会主義国であるロシアや中国を批判した。マルクスなどにもどれという思想であった。大きな勢力でバタッと変えようとしたわけだが、そのころからは社会をバタッと変えるのではなく、自分たちの周りの社会を作っていこう。そして生協が生まれる。食を通じて、農家も消費者も適切な価格で生きていけるもう一つの社会を作る目的だった。今もその延長線上にある。巨大社会よりも自分たちの世界。

自分たちの社会を作っていこうとなると合理な物だけでは作れない。非合理な物を認めていく。非合理を取り込んで行かなきゃいけない。そうなると人間たちの精神・文化などにも広がっていく。そうしていろいろな物の見直しにつながる。

最近の若い人には合理的じゃなくても受け入れてしまう。自然を含めて検討してきた社会があるから。今年論文の本数が多かったのが、コミュニティービジネスとソーシャルビジネスだ。コミュニティービジネスはもうけることよりも、コミュニティーを作ることに趣を起き、たまゆら的食堂のような、集会のようなものである。

ソーシャルビジネスは社会的な問題、たとえば、環境問題とかゴミ問題とか、これを可能にするだけの収益を得る。フェアトレードなんかもそう。途上国から買いたたくのではなく、生活基盤ができるように。それを支持している人に売る。若い人にやりたい人が増えている。

そして他者のために生きる利他、もともとは仏教用語であるが、死語同然だった言葉に脚光が浴びている。他人のためにしていると自分のためになるということである。ミイラ取りがミイラになってただの企業になってしまうこともあるが、イギリスのある企業は不正をしないことで信頼を得ている。元々の企業はソーシャルビジネス。最近は金儲けのためにできた企業もあるけど、企業の改革が見えてきた。原点に戻る。ソーシャルビジネス企業が絶えず出てくればよい。そういうことを繰り返しながら、企業は再生する。そうしないとただの金儲けになってしまう。

そういうことを通して社会改革ができるかどうかはわからない。ミイラ取りがミイラになってもいいじゃないか。そうしたら新しいソーシャルビジネスがでてくる。近代システムが明らかに劣化している。国、地方は一千兆円の借金、相次ぐ企業倒産。

そういうわけで欧米へはもはやあこがれの対象ではない。僕のゼミの学生が夏にゼミ合宿をやりたいときた。何をするかも決めてこなかったので、龍神の滝という水量が結構ある滝がある。そこで滝行をした。昔の人がやったことはいいことだろう。そういうわけで滝行を学生がすんなり受け入れる。最初は数名で女性は遠慮していたが、最後には全員でやっていた。昔であれば仏教なりを勉強して、その修行の一つとしてやっていたわけであるが。

黒澤さんという人が上野村にいる。自転車で世界一周をした人変わった人なのだが、ふるさと協力隊できた女性と結婚することになり、45年ぶりに村の結婚式を復興した。二人して聞き取りに回ったのだが、何しろ覚えている人が年配な上に、全部を知っている人がいない。男性だと表で何をしたかぐらいは覚えているが、裏で何をしてもらってお膳がでたかなど全く記憶していない。それに自分の結婚式を挙げた人だと、結婚式はわかっているが、やはり裏方のことは知らない。それで二人で聞き取りに回り、準備に一年かかった。今度は上野村テレビが撮影しているので、やりたい人がいれば誰でもできる。二人の結婚式ではなく、村のお祝い。ふと思い出して紋付き袴がいいのかと聞いてみたら、スーツの人もいるから大丈夫といっていた。しかし実際には村のほとんどの人が貸衣装で借りてきていた。紋が同じだからまるで全員が親戚。上野村の人にとって10万というと結構大金になるのだが、それでも自然と人間の里における結婚式。みんなが楽しそうにやっていた。

会場からの質問に対して

国家がやるとよくない。評価のスパンが長いと馬鹿な民衆は置いておいて俺たちがやり20~30年後に認められればいいとなる。逆に短いと短絡的な評価を求めるようになる。

あっちのスーパーで1円安い、こっちでは別の物が安いと一生懸命になっているが、あれは健康法と割り切らない限り損している。確かに安いかもしれないけれども、それを検討する時間や移動時間の方がもったいない。それならどこで買っても一緒。

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2010年9月13日 (月)

第3回新たなる多数派の形成を目指す上野村シンポジウム 2日目

では、夜食の買い出しを終え、リラックスしてので、また気合いを入れて書き始めます。それぞれの分科会からの報告がありました。ちなみに自分は第六分科会で師匠の内山先生とご一緒したのでそちらは少し詳しくかけるかもしれません。

司会:山梨県庁 手塚氏、水産庁 長野氏

第一分科会 「草木染め」より報告
 子供たちと一緒に植物をとってきたのが始まり。仕事をやめた後も続けた。上野村ならではの近所づきあいがある。それから村の昔を知るようになった。上繭は(川を降りた先の)藤岡に売る。中以下は座繰り(糸を紡ぐ機械)して、平織りにした。その当時の座布団を今でも使っている。縦糸はぼろ糸、横糸はぼろ布をほどいて座布団を作った。玉繭のように2つつながってしまった物は、真綿にした。昔は染め物は藤岡で都染めといって化学染料を使って染めていた。最初は都染めをやっていたが、上流に住んでいるわけだから、川を汚してはいけないと焙煎液はすべて自然から抽出した物を使っている。草木染めの欠点。それは手間がかかること。それに植物が花が満開など一番いいときに使ってしまうことに心が痛む。命をもらって染めている。しかし、この欠点が未来につながる技だと思う。自然を楽しみ受け入れていくことが大切。

手塚氏:自分も絹織物に関わっていたことがある。手作業なので、どうしてもほつれや、色むらなどができる。大手百貨店に売り込んだときに、当時は欠陥率3%以内で納めろと言われた。製品の品質に問題というわけではなく、見た目によくない部位がどうしても10%位でてしまう。そんなわけでバイヤーにはじかれていたが、今はそういうのが趣があっていいと向こうから行ってくる。時代が変わった。

第二分科会 「竹細工」より報告
 3~4年目の竹がいい。強度が出てくる。1年目では若すぎる。そこが木工とは違う。木工だと30~40年くらい木が育つのにかかる。壊れても土に帰るのが自然からできた物の良さ。
 竹細工は竹を割くのが難しい。編むのは簡単。割くのに10年かかる。
 暮らしの中で使ってもらうことで技を残す。焼き物は90%近く国産と多いが、竹細工は少ない。ほとんどが外材。外材は壊れやすく、もろい、さらに水にも弱いという欠点がある。100円均一で使い捨てにするより、本当は長い目で見れば全然安い。
 ただ、若い人は食器の使い方すら知らない。今は使い捨てだし、よいのがわかっても使い続けていける自身がない。竹は一度ぬらしたら乾かさなければいけない。そうしなければ腐ってしまうことは昔は誰でも知っていた。しかし今の人はそういうことすら知らない。10年修行に耐えられる人も少なくなった。昔は男が習いに来ることが多かったが、今は女が多くなっている。
 経済効率は悪い。大量消費によって成り立つ。そういうことも考え直した方がいい。

第三分科会 「木工」より報告
 作ることもさることながら、売ることが大切。消費者の嗜好が多様化している。技が確かだから説明ができる。機械でできる仕事はしない。道具から自作している。木は一つ一つ生きているし、一つ一つ違う。
 経済的に豊かに暮らしていけなくても、明るく暮らしていければ、上野村に残るのではないか。昔は職人に弟子入りする人がいた。給料ももらわず技を盗んで独立する。

第四分科会 「狩猟」より報告
 熊取物語は人には伝えられないので省略する。昔熊は2~3年に1頭とれればよかった物が最近はよくとれる。1シーズン2頭なんてこともある。熊が里で歩いているのを見た。ハンターが少なくなっている。(これだけ見ているのに、)政府発表では熊が増えていないという。
 ハンターが少なくなる原因として、さらに銃規制が厳しくなる。犯罪があるとひとくくりに、規制されてしまう。そうすると地域の問題に対処できなくなる。そのうち1頭いくらとか補助金がつくようになるのではないか。

第五分科会 「和蜂 養蜂」より報告
上野村ではほとんど買う人がいない。しかし伝染病なども少ないから、飼いやすい。ただし、人工的に分家できないので、増やすのが大変な上、西洋ミツバチより小さいから蜜のとれる量も少ない。

第六分科会 「山仕事」より(これは報告に従わず、みえだメモです。)
 自分は頼まれて何千haとか切るのが仕事。全部一人でやる。
 自分がやり始めの頃は木を切らなかった。今の青木林業につとめ始めて、他の人が巨大なのこぎりで切った木を木馬(きんま・木製のそりのような物)に乗せて運ぶのが仕事だった。当時8寸くらいの木を切っていた。急なところはワイヤーでブレーキをかけながらおろしていけるから楽だったが、平らなところは人力で引っ張らなければいけないから大変だった。
 木を切ったら、木のつるとかで下から引っ張り出す。そして木馬に乗せられるところまで引っ張る。それは6~7年やった。
 その後自己流で木の切り方を覚えた。当時は広葉樹が多く、小さい物はチップとか箱材に使う。大きい木は製材して別の用途に使った。
 そのころは羽振りがよかった。1石1万だから、今の5~7倍。中卒で1日働いて350円もらえた。その当時まじめにためておけば、城が建っただろう。でも、みんな飲み歩いて使ってしまった。
 雑木樹林は評価が低かったので、こぞって広葉樹を切って、杉、檜を植えた。植えて大きくなる頃には外材が入ってきて売れなくなった。二束三文で売るなら、売らない方がいいとみんなそのままになっている。今考えておけば天然林にしておけばよかった。
 木は市場に出した。今の埼玉県児玉町と群馬県富岡市にあった。ユニック(クレーン)付き4t車を頼む。切るときは地主さんに許可とって。1本40~50万で売れたときもある。車に乗らないような長い8m位の木は、枝が伸びていると幹を傷つけるので、枝を落としたり、二叉に分かれるところで切ってしまう。
 里に近いところにはいい木がない。それに立派な木を持っている人は、その木に愛着を持っているから売ってくれないし、売る気がない。
 自分がチェーンソーで木を切り始めたのが昭和40年頃。当時の価格で13万くらいしたがすぐに回収できた。まだ周りでも持っている人がいなかったからおそわれなかった。木がさくさく切れるときはそれは楽しい。大きい木だと刃が木に巻き込まれて食い込んでしまうから、切れなくなってしまう。
 山仕事ならどこに倒してもいいが、(空師のような)町の仕事だと電線があったりするから難しい。山梨で頼まれたときも、電話じゃわからないからとりあえず見てみて、これなら切れるだろうと思ったから受けた。今でも難しい木を切るときは御神酒をあげる。
 股関節が痛い。左足の軟骨が3mmしかないと医者に言われた。でも手術したら今後大きな木は切れなくなるし。
 (村役場職員から)今Iターンで大卒が林業をやっている。日当7000~8000円最大働いて月24,25日、冬に雪が降れば仕事もできないので年200日+αくらいなので、月額13,14万円くらい。雨が降れば当然できないし、明るいうちしか仕事ができないから8~16時くらい。単身の村営住宅が1部屋1万、家族用でも3~4万円、インターネットが500円で使えるので、十分生活がしていける。さらに子供が3人以上だと村独自の子供手当が国の他にもらえる。今森林組合には40人くらいいる。
 上野村は間伐材を切ってもおろすのが大変な場所が9割なのでほとんど捨ててしまう。価格はちゃんとした木で1m3で1000円くらい。ここからトラックのレンタル費などが引かれる。価格が安いのでおろす手間もでないから間伐材だと捨ててしまう。木を切る人は今Iターンが多い。
 (内山先生より)土地の区分として国有林(よそ者)、吉本(佐久3000ha)、他はほとんど村内保有。
 (仲澤氏に戻り)自分が小学校の頃は山で移動製材していた。だからどこでも製材が作れた。
 その後はトロッコ+ガソリンカーで山奥からおろしていた。下りはブレーキだけで労力なくてもおりてくるし、登りはガソリンカーであげる。その昔は犬で炭を運んでいたところもあるようだ。犬にリアカーを引かせて。
 でも、今は炭焼き専門でやっていても炭が売れないからやらない。売れればあんなの手間だけですむからやる人がいっぱいいる。当時はこんにゃくが高く売れて、炭も売れるからよかった。
 (吉澤氏より)中国電力が古民家の修復をやっている。しかし古民家だから火に弱いと言うことで、オール電化にしてる。それもどうかと思う。

 (第六分科会全体討論)上野村はエネルギーを自給自足していけるはずだ。囲炉裏と薪が大切。そして「コンクリートから木へ」の転換。公共施設をコンクリートで建てているのがナンセンス。木で生活するようになれば、そこに製材や大工といった産業が生まれ、村が潤っていくようになる。村役場が率先してそういうことにお金を使わなければだめだ。

 (内山先生より)村の森を守る技もあるけど、仲澤さんのように特殊伐採できる人の技を都市に売り込むという方法もある。そして強い言い方だが、跡取りがいない人に発言権を与えない。今発言権が強い人は跡取りがいない人が多い。そうすると自分さえよければとなってしまう。跡取りが自分の子供でなくてもいい。ようはそれをつないでいける人なら。跡継ぎがいるからその子、孫のためにと100年スパンとかで物が考えられる人に発言権を与えていかないとよくなっていかない。

手塚氏:未来は昇降階段型ではなくてもいいと思う。螺旋階段型がいいのではないだろうか。上から見ると同じところくるくるしているようでも、確実に上に上がっている。
コンビニすら地域限定の物を作り始めている。今までは全国画一の物をPOSで管理し、売れる物を補充するというやり方から変わりつつある。

長野氏:私たちは自然の中で生きている。自然をいじることはおこがましい。都会は一人で何でもできると思ってしまう。

(全体討論)お互いの要望を取り入れた物作り。体験させることでその価値をわからせる。

 私たちは安い物を使うのがよくない。しかし、ホームセンターやコンビニなどをつい使ってしまう。
使う技術が伝わっていない。それは夜行列車で出て行った人の性。あの人たちはまだ、その技を持っていたが、子供に伝えなかった。
→竹細工職人の青木氏から
商売気はないが、消費を増やすことよりも、命を削って制作しているので、長く使ってもらいたい。100円均一のような安い物でも制作に当たってはその時間は人が命を削って作っているので大切に使ってもらいたい。
という言葉があり、みえだ自身はこの言葉を聞いただけで、山奥に行った価値があったと思うほどに感銘を受けました。(会場も大きく共感していました。)

 新たなる多数派と書いてあるということは内山さんも多数派でないことを認識しているということだ。しかし少数だからやめてしまうことなく続けていくことが大切である。是非村役場にはたとえ参加者が一人でもやめないでもらいたい。

締めの言葉(内山先生より)
 上野村にきて40年たつ。しかし上野村は飽きない。奥行きが深い。40年たっても知らないことがたくさんあり深い。そして人間の蓄積も深い。その2つがあるからこそ飽きないのだろう。これからの未来の力になるのではないか。
 今年は技でいこうかとなった。プロのトップの技。これは一人一人の技であって、弟子をとってもその人以降には受け継がれない。そして、プロまでは行かなくてもセミプロの技、素人の暮らしには役に立つ程度の技と技にもいろいろある。しかし素人の技を持つとプロの技のすごさがわかる。今回は職業としての技を持っている人を取り上げたが、生活の中の業師もいる。漬け物の達人とか。経済的に収益をもたらす訳じゃない。そういう物も入れると6つの分科会ではあと10年くらいかかるだろう。技は自分の労働に誇りを持たせる。技があると収益は厳しくても誇りを持てる。そして、新たな発見もあって仕事も楽しくなる。技を使って人々がつながっていく時代にこれからなる。人々がつながっていくための技もあるだろうし、間に道具などの物が介在するような技もあるだろう。
 技の世界は切れない結びつきを次いでいく。相互に結びつかないといけない社会になる。都会がなければ売れないだろうし、都会も田舎とつながりを持ちたいと思っている。イベント的な1回、2回の結びつきならば問題がないが、持続的な結びつきのためには技がいる。技があるから楽しいし、発見がある。技があるならしっかりと結びついていく。
 手塚さんが言うように10年ぐらい同じところをぐるぐる回っているだけかもしれない。でも10年後にはちょっとくらいあがっているかもしれない。
 今回やったのはよかった。技が何か確認できた。技を通してつながる世界をどう作るか再確認できた。
 上野村としてブランド化すべきだ。いわゆるバッグとかのブランドではなく、上野村からできる物はすべてブランド。自然も人もすべて。まねをしたいなら他の地域でもやればいい。そういう意味では上野村はいい線を行っている。技もあるし、自然もあるし、人もいいし、共同体も残っている。新しいブランド形成。
 始めの頃は輸入大豆でやっていた物が、国産大豆、今は村内産大豆で十石味噌を造っている。ちょっと高級なやつがそうだ。獣害があるから全量を置き換えるまでには至っていない。

 みんなで作る未来を遠くに見ながら・・・。

 そして、この後オプションの滝行を師匠と一緒に行いました。下の写真は滝行前にホラ貝を吹く師匠の雄姿です。滝をバックにとればよかったと後悔していますが、そちら側は人が多く構図取りが難しかったのでご勘弁。隣に子供もいましたが、大人10人くらいが一番水遊びではしゃいでいました。

Uchiyamatakashisyugendo

内山節 修験道スタイル

滝行して下界に戻ったなう。突然咳き込んで目がかすむ。やっぱり下界は空気が汚れているな。月15万で生活がなりたつらしいから移住してしまおうかな。

シンポジウムであまり寝ていなかったから(前は遠足前の小学生状態で眠れず、今日は酒飲んで熟睡できず)もう寝ていたらマンションやさんに起こされたなう。電気が消えている意味を考えてもらいたい。完全に空気が読めていない。せっかくマイナスイオンを浴びてリフレッシュしたのに既にストレス

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