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2012年6月の1件の記事

2012年6月10日 (日)

2012年 の・ような哲学塾(三人委員会哲学塾東京分校)

内山節先生を追いかけて上野村へ。しかし内山先生とは村内で二回くらいしかお会いしたことがなく・・・。そんなわけで昨日も追いかけて赤羽へ。前半は事務局でばたばたしていまして、メモを取っておりませんでしたが、例によってみえだめもです。

3.11以降を生きる
新しい価値の創造と共有

共同体は経済でつながっていた。今だと面倒な人間づきあいを我慢してまでつながる必要があるのかとなってしまう。不利益が有益が上回ってしまうので、だから今はやめてしまう。市場が広がっている。いろいろな結びつき、消費者と生産者、流通などを持ちながら復興していかなければならない。

地元金融機関とうまくつきあっていく。例えば私たちが募金で一億円を集めたとしても、それは1件にしか渡せない。でもこれを原資として金融機関で借りると10億円になる。つまり1億円が10件融資できることになる。さらにここで消費者と生産者がつながっていることがわかると、焦げ付きにくいので貸し出しやすくなる。そして募金を出した人はもともと寄付であげるつもりだったのだから、戻ってくればうれしい。お金が返ってきたことではなく、それだけ復興できたことがうれしい。それにたとえ焦げ付いて戻ってこなかったとしても、元々あげたものなのだから。復興をやっていこうとすると関係性が大切。

デパートに「幸せに帰ろう」とブータンのポスターが貼ってある。幸せを「取り戻す」のでも、「作る」のでもなく、「帰ろう」なのである。これはコピーライターが考えた者だろうが、デパートとしては消費を拡大してくれなければ困る。僕が中学生のころウエストサイドストーリーが流行った。ダウンタウンの高速やビル街。当時の人々をびっくりさせた。日本は遅れている。ああなりたいと思う人が増えた。しかし、今やブータンの写真を使っている。我々はそれに何かを感じても、新しい価値の想像はできない。我々の生活はいっこうに変わらない。

なぜか。

価値の交換は旧来型だからである。いくら頭の中を変えても現実の生活は違う。例えば銀行にお金を預ける。消えたら怒る。一方で震災復興のお金は戻らなくても怒らない。価値の創造のためには価値交換が必要。僕はいったことがないからよくわからないけど、ブータンがすばらしいと言ってもせいぜい観光で行くくらい。戻ってくれば同じ生活になる。

市場がからむと商品の交換になる。個々の価値交換を始めるが、しかし人々が手間を交換し会う。生産から流通するまでには多くの手間が必要。生産する人の手間、自然がはぐくむ手間、収穫する手間、流通する手間など。

他人の手間をいただいて私たちは生きている。いただいた手間に対する御礼が必要。上野村ならたいてい「ありがとう」ですむ。こういうときは、こういう御礼ということが何となく決まっている。こういうときは一升瓶を持っていくなど。御礼もすぐにしたら失礼になる。こういうときは御礼をお金で払うというものもある。それはその人にしかできない仕事による技術。

ある時自分では切れない木を切ってもらったことがある。特殊伐採で家の隙間に切り倒してもらうような技術だ。東京であれば30万円くらいかかる。しかし村の人に聞いたらそれは1日6000円だというので、3日分18000円だけ払った。当然一日の労働賃から見れば安い。みんなができることはありがとうですむ。御礼がその労働にふさわしいかどうかはわからない。村の中で循環させる。私が一人5万円払ってしまうと値段が上がってしまう。誰かが値段をつり上げると頼めない人が出てくる。手間に対する御礼であって、普通に働けばもっともらえる。

原発の安全神話が崩れたという人がいる。本当に安全だと思っていた人がいるのか。私もそうだが、変わったことがある。原発には元々賛成はしていなかったけれど、遠くにあるというイメージがあった。事故が起きてみたら自分の住む横にあった。

イデオロギーは資本主義ではなく、イメージなのではないか。経済発展なくして日本の将来はないのか。それはその人たちのイメージ。経済発展しなくても社会を作っていくことはできる。

昨年の節電キャンペーンや計画停電でも特に不便はなかった。僕が住んでいるのはビル街で、クーラーの廃熱がかえって町を暑くしている。それがないぶんかえって涼しかったのでよかったのではないか。

関西電力も電力が足りなくなる可能性がある程度。原発を稼働しなくてもTVをみんなが切れば乗り切れる。最近のテレビは省電力化したと言っても、その分大型化し電気を消費している。だから電力が足りなくなったらみんなでテレビを消せばいい。それに新聞社がやっているのだから、高校野球を8月2日くらいに少し遅くしたらいい。高校生の体にとっても暑い中やらせるのは良くない。ようはイメージの問題。

最近は建築学会とも仲良くしている。もともとは敵のような団体だ。1959年に木造建築をなくす採択をした。たてるとしても太い筋交いや鉄筋などで今のように補強しなければならない。それが今になって少しは変わってくるようになった。

当時は建築家の作品を作っていた。しかし作品づくりではいけない。地域や風土、コミュニティーと共にある建物。コミュニティーは変わる。それに合わせて変動する建物。コミュニティーのないところではどうするかが今の課題となっている。

鉄とコンクリートとガラスが建築を飛躍させた。昔だって窓などガラスを使っていたりしたが、今は壁としてもガラスを使っている。これが建築を荒廃させた。この使い方をどうするかになってしまっている。

支配してきたイメージをどうするか。政治、国家のイメージ。ケインズは資本主義を支持してきた。ケインズは国が経済をコントロールしなければならないと思っていたので、各国がこぞって取り入れた。80年代になるとケインズも古いと言われ、市場がすべてを管理するようになった。

貨幣価値の安定かがケインズの目的。だから国家の積極的な為替介入により、貨幣は安定化できる。資本主義には解決できない問題がある。資本主義というシステムが一番効率がいいから支持はするが、すべてが貨幣で交換されてしまう。貨幣が軸なので、人間たちは貨幣こそがすべてという社会を作ってしまう。これを「貨幣愛」と読んだが、そうなるとどうにもならないくらい退廃する。そして最後は社会が自滅する。投機に効果がないことを国家が為替介入などで担保する。貨幣愛の社会はいけない。

今はイメージ化された世界に我々は生きている。イメージを追いかける。だからイメージを支配してしまうことによって、人間も支配できる。でも経済ではイメージ戦略が通じなくなってきた。すべてのシステムを私たちは知っているわけではない。原発が30%で、それが稼働しなければ電力が足りないというイメージ。

老後というイメージ。それを管理する年金や保険といったシステム。僕は朝は二度寝してしまうと起きない人なので、朝テレビをつける。二度寝のじゃまになるように音がするために。そうすると健康食品のCMと保険のCMが多い。僕は保険には一切入っていないのだが、今は立教で共済はかけられているけど、20人の仲間が何かの時はお金を出す仕組みを作っておけばいい。例えばメンバーの誰かが入院したら1万円、重い病気なら10万円とすればすぐにお金が集まる。だいたい20万円あればどの病気でも大丈夫だし、一度に1万円が大変なら月千円ずつの積み立てだっていい。でもその信頼できる仲間ができない。

復興のためには違う社会の作り直しが必要。今何かできそうな気になっている。あちこちで動き出していて、ちょっと元気になっている。だから、震災関係の仕事は断らずにこなしている。

会場からは復興資金が集まりすぎてとまどってしまい、かえって使えなくなることや、変わらない私たちの生活をどうしたらいいかなどの質問がありました。→変える必要はない。変わることと変わらないこともある。情報をほしいなら、自分も情報を発信しなければならない。近所との何気ない会話で自分のことを説明するなど、日常から少しずつ情報を発信していくようにすればそれでよい。

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