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2011年8月 8日 (月)

農文協 読者のつどい2011 【哲学講座】 第三講

ほとんどの人がテレビで現状を知った。そしてテレビは初めて津波を映像化した。世界中が日本特集になっていた。世界の人には日本沈没だと思っていた人もいる。日本がこんなに細長い国だと知らない人もいるから。あの映像というのはすごい情報量。ラジオや本だと大変。僕もテレビに何度か出たことがあるが、TVでは出ていましたねと言われて終わり。ラジオだと内容に関わることをいくらか覚えている。しかし人が一番覚えているのは文字。一番情報量が少ないにもかかわらず。

TVはまず結論を言う。後半は覚えていてもらえない。大量の情報を受けた結果、判断ができなくなる。情報が大切なのではなく、判断することが重要。だんだんに現実性さえ失っていく。そんなに大量に情報が必要なのか。ただ情報が入るだけになってしまう。

これはいろいろなところで起こる。学校で多数の問題が起こったとき、学校の先生より保護者の方が判断できる。学校は中にいるだけに情報を持ちすぎている。あの人とこの人の関係、親子関係など。外から見ている人はいくつかの情報の中で判断をしているから。

生情報を流し続けても判断できない。誰かがまとめておおざっぱにする必要がある。情報というのはきちっと伝わるのかという問題になる。専門家でないと判断できなくなる。しかし誰かの判断が入ると言うことは情報操作につながる。また専門家の判断ミスも入る。正確な情報は提供しようがない。

近代社会の約束事は意味がない。情報を大量に出せば市民が判断すると思っていた。情報化社会、情報開示が幸せにつながらない。身体性や霊性でも情報を得られないと正しい情報を得られない。

マスコミが真実を伝えられないという人ほど新聞を見ていない。週刊誌などを読んでそう思っただけ。自分で新聞を見て真実を伝えていないと分析した訳じゃない。

身体性をなくし、知性でしか得られない情報は判断できない。コミュニティーは身体性や関係性のある社会共同体、一つのまとまりではない。様々な共同体が積み上がって村という共同体をなしている。

一つのモノに統合されるとうっとうしくなる。重層的に重なっているうちは多少うっとうしくても我慢できない範囲じゃない。明治以降一つの共同体にまとめようとした。多層的コミュニティーであれば都市でも可能。外部とつながっていないと内部も強くなれない。

今は手作りの世界だけですべて完結しないのだから、外部とつながらなければいけない。今回一番良く動けたのは元々つながっていた人たち。例えば鈴廣さんは大きいかまぼこやだが、全国にある小さなかまぼこやさんとつながっていた。そこでそのネットワークを使って本当にほしい物を送れた。しかも市役所を通すと分配までに時間がかかるという情報を得て直接持っていった。他にも高崎のグループが高崎であらかじめ支援物資を仕分けして持っていくなどの動きもあった。こういう形であれば、現地に行かなくてもボランティアに参加できる。閉じたコミュニティーは広がりを持たない。どういう形でどう開くかが大切。ただ開いてお客さんを待っているだけでは仕方がない。

自分のために生きている人だと、震災に遭いこれからどうしていいのかわからなくなってしまった。他者のために生きる人は強い。何らかの形で子供でも奥さんでも町でも他者のためにという人はそれなりに行動ができた。若い人ならまだ自分のためにでも何とかなるがお年寄りはだめ。原発立地地域は保証待ちになってしまう。自分で行動する意識が薄くなる。

近代以前は他者から「働きかけられている」ことを意識した。近代以降は「働きかける」方を意識した。そうすると働きかけられていることが見えなくなってしまった。働きかけられていることを意識しているとそれに答えようと自分も働きかけるようになる。逆はできない。

災害時を意識してどういう形で自然を残すか。また農山村と都市はつながっていかなければならない。しっかり結ぶのもあれば緩やかに外部と結ぶものもある。今の課題は私たちはどういうシステムの中で生きていくかを考えることだろう。今のシステムの延長を考えていると年金などいろいろな不安がある。社会の形は一つである必要はない。

人間の価値に根拠を求めている限り価値はない。それは知性で考えている限り、無根拠であるということである。霊性や身体性でしか語れない価値がある。例えば夫婦仲がいいところは、その根拠を語れないところが多い。逆に容姿がきれいだ、料理がうまいなどの根拠をあげるとそれがなくなると価値を失ってしまう。よくわからないけど、いいというのが長続きする。すべての物に根拠があるという近代が作った神話を壊していかなければならない。

僕は最近修験道にこっているんだけど、修験道は六根清浄といって山を登る。六根とは六識のこと。眼識、鼻識、舌識、耳識、身識、意識(心)。私たちはこの六式を使っていろいろな情報を得ているが、すべてを知性に回していない。例えば目には映っているけど、意識しない物はたくさんある。五感というと知性に回して判断させている。

哲学は今まですべてを語ろうとしてきた。しかし語り得ない物が哲学である。

関係性を持つことは煩わしいからできないという人がいる。しかし現代社会は煩わしさの中で生きている。例えば会社で出世するためには上司にこびを売る、役所なんか行きたくもないと思うくらい手続きは煩雑だが、みんな受け入れている。知らないことが怖いだけ。

日本語は表意文字だから行間で語ることができる。

グループディスカッションは省略

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