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2011年8月 8日 (月)

農文協 読者のつどい2011 【哲学講座】 第二講

危機とはシステム崩壊のこと。地震は古代から生活や労働システムが壊される。これは今日も同じ。今回の震災で東京のシステム崩壊は若干起きて終わった。鉄道が止まる。電気が足りなくなる。帰宅難民が一日でた。

東京で起こる予想の地震では公共システムも崩壊する。情報システムも壊れる。すべては電力システムの崩壊から始まり連鎖していく。土がない世界ではお手洗いが大変。関西の時は水、食料は2~3日ですぐに届いた。つまり2~3日分備蓄しておけば間に合うことになる。お手洗いは大変。僕は上野村があるから何とか交通手段を見つけて脱出すれば問題ない。最悪直線距離で100kmくらいだから何日か歩けばつくだろう。でも高層マンションや都会の公園ではそうはいかない。

自然が支援装置になっている。村人たちも助けてくれる。共同体と自然が護ってくれる。この二つがない都会でシステムの連鎖崩壊が起こったら大変なことになる。

共同体は人とのつながりだけではなく、自然とのつながり、技術もあった。今の社会は専門家でないと対応ができない。今回想定外という言葉がよく使われた。原発は最大80年くらい修理しながらも使える。80年もあるのであれば、大地震や戦争だってあるかもしれない。想定があることでシステムが作られる。すべては想定に基づいてシステムが設計されている。年金がピンチになっているのはシステムが想定と会わなくなってきているから。今までは右肩上がりで経済成長し、こんなに未納者が多くなるとは思っていなかった。システム設計値を作り直さなければいけない。個人でも同じでこれだけの収入があるからということで住宅ローンをくむ。農家がトラクターを買うのにお金を借りるのも同じ。会社がつぶれたりすれば、想定が変わり、システムが破綻する。

システムはそういうモノだとはっきり見た方がいい。すべては想定が会っての話。巨大システムになると専門家でしか動かせない。普通の人が排除される。専門外の人が入れないシステムでは、普通の人は受益者になるか、被害者になるしかない。(この部分を改良したら良く育つなど)干渉して良くしていくことなどはできない。この構造自体が危険なシステム。専門家たちが軸になるということは、専門家の視点からモノを考えられない偏った人たちが集まると言うことになる。すばらしい知見を持った人ではない。そういう発想でしかものを見られない。専門家は絶えずその視点で見る。農民だって農業という専門家だが、そこには共同体や自然などが入るので視点が広がる。違う世界の人といかにつきあうかが大切。今だと農民だって消費者とつきあっている。狭い範囲で語ると同じ意見が出てきて、専門家の暴走を生む。

危険とはどういう概念なのか。放射能とか化学物質とか。世界が危険というのは動物実験をしてガンが出るなどの症状が現れたモノを危険としている。それでいいのか。埼玉大学の食品添加物の研究をしている人。最初に危ないと言ったのは豆腐に入っているやる。我々が小さいころは豆腐はすぐに腐ったので、鍋を持ってその日のうちに買いに行った。しかしそれが日持ちするようになった。厚生省に危険だと申し出た。マウスに供与すると高い確率で胃ガンが発生した。しかしなかなか取り入れてもらえなかった。なぜならば流通にとっては画期的なことだから。今まではおいておけなかったモノが、長期に陳列できるわけだから。その後これに変わる添加物が開発されたことで、禁止になる。胃ガンは国民病だと言われた。それが禁止にされて胃ガンの発生率は欧米並みになった。

しかしその先生はそれを危険とは言っていない。危険とは人間の予測できないものだ。ネズミが死ぬようなモノは超危険物質だ。腐敗は死にも至るわけだが、ずっとつきあってきた。五感でわかる。まず、酸っぱい臭いがして、色が変わる、それでも判断できなければちょっとなめてみればわかる。だから危険とは言わない。最近では賞味期限がついて判断できない人が出てきたので、それは危険。

専門家といってもある角度からの専門家。安全だと判断されていたモノも別の角度から見たら危険だということは多々ある。天然の放射線は絶えず浴びて、体は自動的に修復してきた。しかし人口のモノは相ではない。つきあってきた歴史があまりに短すぎる。つまり、すべて危険になる。

専門家しか若菜内のは非常に危険な世界。大きなシステムも同じで自分で判断できないのは危険な世界。今の巨大システムは一つのシステムが崩壊すると連鎖崩壊してしまう。国に頼っていると震災対応もあんなもん。東電から経産省、国へとあがってくるデーターを見てしか判断できないわけで、それが一つでもおかしくなればシステムが機能しなくなる。

東電は広告を打つ必要はない。なにしろ消費者は他の電力会社がいいと言っても選択肢はないのだから。年350億円も使っていた。ある種のマスコミ買収費。経済の専門家は東電自体の問題よりも、年350億円使われないことが問題だと言っている。

東電の講演会はお金をもらう方からしたらいい講演会。1回100万からランク付けされている。自分は自然の良さしか言わないでいい。何を言ってもかまわないが、原発にふれないでさえいれば100万円。こんなクリーンさを守れるのは原発しかないとして、原発のクリーンさを第2部として東電社員が話す。東電は送電線も作っていないし、電気料金も直接社員がはかりにくるわけじゃない。そういう工作ばかりを社員がやってきた。

関係を修復しながら生活できない場所を作った。30年は入れない土地を作った。原発は風評被害は存在しない。風評被害とは農文協の社員一人がけんかをした。これが全社員がけんかをしたとなること。しかし原発はどこまでが危険かわからない。危険値はかわり、今まで安全だと言われていた値だって我慢しようという値になってしまっている。

こういう世界で生きている人たちを守らなければいけない。僕は購入券だけ買えばいいと思っている。商品自体は交換しないけれど、受け取ったこととして代金を支払う。これで農家にお金が入る。漁民であれば、これしかとれなかったということであれば、3倍の値段で復興支援費をかねて払ってもいいと思う。しかし原子力の場合は汚染された可能性があるとすると食べたいと思わない。人間的な思い、支援ができない。

今までの延長線上では対応できない。残念ながら土地に戻るかということもある。今までなら残った人たちが戻り、新しい人を連れてきて、再興ができた。しかし原発地域ではそれができない。新しい関係を創造するしかない。新しい関係を創造するしかない。

土地を持たない市や町が発生した。台帳の上ではあるけれども、立ち入り禁止。バーチャルの市町村。ネットワークの都市。それであれば僕が作ってもいいのかという話になる。一時的に特例とするにしても、20~30年は長いし、そういう状態でいいのか。

住民票があっても、違う都市に住む不便。そうなると住民も減っていくだろう。最後に残るのはどうにも行きようのない人と最後まで粘る人だけだろう。もし人口がゼロになれば市町村は存在できない。そうなるとその土地は誰が管理するのか。近隣市町村との合併だろうか。初めてのケース。

バーチャル市でいいのか。一面では私たちもバーチャルの世界に生きているから問題にしている。原発あるのは知っていたけれど、あんな事故を起こすモノだとは思っていなかった。原発は遠いモノ。イメージの世界に生きていた。

欧米に追いつけ追い越せと言うのは途上国的思想。その当時日本は途上国だと思っていた。先を走っているなら追い越せとはならない。江戸期にはいい文化を持っていた。追いつけ追い越せというイメージを明治時代に作った。戦前の日本には列強に追いついたというイメージがあった。植民地とか。それが変わったのが関東大震災。今でこそきちんと並んで支援物資をもらい、暴動も起こらず偉いと賞賛されているが、関東大震災では略奪などがひどく、軍が戒厳令を出して巡回していた。

そこではいろいろな風評被害が流れた。例えば朝鮮人が井戸に毒を入れているといったものである。それをそのまま読売新聞が伝えてしまい朝鮮人大虐殺につながった。3000人くらいの。警察署に囲っていると聞いたら、警察署すらおそった。日本人がいつでも美徳を持っていた訳じゃない。列強に追いついたときにはそういうことをしている。

なぜ今暴動を起こさずにちゃんとやっていけるのかを考えてみたい。バブル以降我々の社会はどこかで間違ったのではないかという思いがあった。そういう動きが広まっている中で震災が起こったとすべきではないのか。100%システムに入っている人がシステムを作り直すのは難しい。一つの文化の中で暮らしている人から新しい文明が出てくることはなかった。新しい文明は常に文明の狭間にいた人。初めて機関車を見た人は驚嘆する。それが毎日見ている人には感動がない。驚嘆することが新しい文明を作る。旅に出ることや、都市と農村の交流、過去を知るなどによって新しい価値観を得る。

私たちの社会は境界線に向かって歩いていた。大きく歩く人もいれば、小さな一歩の人もいる。でも向かい始めていた。システムの中にいる人にはシステムを見直すことができない。消費社会を批判していても消費社会の中にいればそれに頼らざるを得ない。

原発は安全か安全でないのかの議論はしたくない。少々のトラブルはあっても安全だとなるとそれに反論が出てきて、無限の論争になってしまう。原発は最終的に止まるかもしれない。それは安全性の問題ではなく、コスト論で最終処分まで考えたら会わないからという可能性はある。

広島、長崎の被爆経験があるだけに、核の平和利用にはあこがれがあった。軍事はいけないが、平和利用はよい。政府に批判的な竹谷ですら原子力を推進していた。そういう時代だった。反政府的知識人ですら賛成していたのだ。

そういう歴史を経て、原発の事故を得た。こういう形で人々のと生活を、思いをつぶした。そういう形で社会を作ってはいけない。等身大の人間たちの営みの中で迂回路ができないなら、すべきではない。安全、安全でないから脱原発なのではない。今までは死を遠ざけていた。死を覚悟する、覚悟することが未来。そういう形でしかつかんでいけない。決して生きる世界だけ喜びを感じていた訳じゃない。そういうものをどこまで戻していけるか。いかに大きなシステムに依存せず、専門家しかわからない社会を終わりにしなければいけない。等身大の世界をどう取り戻すか。人々はそれに向けて歩み始めている。

数字しか見ていない人にはできない社会。定住とはその場所に住んでいることではなく、その土地に永遠性を感じること。そこに何世代も住んでいくことではない。今日の問題は異動先に永遠性を感じ得ないこと。移住自体は昔から行われてきた。お嫁さんは隣村からだったりするし。

新しい技術を使うときは、新しいモノにはすべてにリスクがあることを意識して作っていく。新しいモノ=バラ色の未来ではない。本来成熟した社会とはそういうモノ。これができたらバラ色は途上国型社会。

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