« また一つ年をとりました | トップページ | やばい、またも先を越されてしまった »

2010年4月18日 (日)

清浄なる精神と量子論

内山節先生講演会があるため、昨年の「第二回新たなる多数派の形成を目指す上野村シンポジウム」で頂戴した清浄なる精神をようやく読みました。まる2日かかりました。途中半分ぐらいお昼寝をしていましたが・・・。

内山 節: 清浄なる精神

内山 節: 清浄なる精神

最近の内山先生の本は厚い上、内容をよく考えながら読まないといけないため気合い入れないと読めないもので、失礼とは思いながらも1年近く数ページしか読んでいませんでした。

読んで前回の片品村哲学塾で話された話はこれだったのかと感じました。

内容を要約すると過去に学べということなのですが、今までの内山先生は社会の問題の指摘は多くあり、私たちは問題を前にうちひしがれる気分になる作品が多かったのですが、今回は比較的未来をきちんと想像できた気がします。明るい未来かどうかは別として・・・。それだけ自分の心境に変化があったということなのでしょうか。

いくつか紹介すると

個性の尊重は自分しかみえなくなる、つまり相手に自分の個性を押しつけることになり、結局問題が生じる。地域の一員として生きていたころは、まず自然と融合した地域があり個人は単純なその構成要素ではない。共同体を維持するためには全会の一致が必要な社会であった。そのためルールが多くうっと惜しいように感じるところもあったが、私たちの精神には共同体で生きていたころの名残が残っている。

資本主義とはお金をいかに効率よく精算するかということであり、労働すら売り物になってしまう。さらに貧困層は元来お金には関係ない人々であったが、その人たちにお金を貸し、債権を所持しすぎることはリスクを抱えることであり、それを分散してばらまいたのがサブプライムローンである。

社会は今破綻をしている。この破綻を前に我々はどうしたらいいのか。

日本の労働は元来体で感じ覚えていくものであった。知性だけで仕事をすることはよくないこととされた。そしてお金を持ちすぎることをもまた悪いこととされていた。お金を持っている人はたまたまそこに集まっているだけなのでお金をうまく地域に還元する仕組みがあった。しかも「日本」というイメージは近代に作られたものである。昔は自分の住む地域が自分の住むくにであり、地域によって性格が違う。今のグローバリゼーションは地域を無視している。

読みながらいろいろと考えていました。まず、自分の暴走があったなと。けっこうみえだぶろぐで取り上げている内容もあるのですが、内山先生は別の視点から見ていらっしゃって。きっかけとしてはいいがその考えを続けることは危険なんだと思い知らされました。

元々みえだの専門は化学です。その化学は今自然を観ることをやめ、0.0000000の0を増やす争いをしています。こんなことをして何になるのかとも思います。やはり自然から学ばなければだめです。

そもそも、科学だって突き詰めれば量子論になるわけですが、光の波としての性質と粒子としての性質の二面性を認めています。これは科学にとっては敗北だと思います。

これがとてもとっつきにくい学問でした。それもそのはずです。今まで世界は一つの理(ことわり)でできていると教えられていたのが2つの両方の性質が矛盾せず存在するというのですから。

結局我々の世界はある場所ではこのように振る舞い、別の場所ではまた違うように振る舞う。つまり他者との関係においてしか存在し得ないのです。

|

« また一つ年をとりました | トップページ | やばい、またも先を越されてしまった »

内山哲学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/188237/48120242

この記事へのトラックバック一覧です: 清浄なる精神と量子論:

« また一つ年をとりました | トップページ | やばい、またも先を越されてしまった »